今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

最大完全安心のメルボルン・カジノは大阪の模範

マンチェスターから、東洋のマンチェスターの大阪を経由して、メルボルンにやってきた。

Melbourne Crown Casino


大阪はメルボルンとの姉妹都市である。

メルボルンマンチェスターからは一番遠い所にあたる。19,000㎞と直行の限界を超える。

 

メルボルンも上空より見て中心地の目星をつけてみよう。

メルボルンポート・フィリップ湾に注ぐYARRA河口にある都市圏で、東京湾みたいで湾内は大きく湾口の狭いところは横須賀あたりの10㎞程度だが東側の館山に至る線は雄大な曲線のビーチが織りなした形をとる。

市の港は湾内のメルボルン港もあるが運河(Yarra河)さかのぼったwharfの方がメインだ。

運河は左右に横に広がり東のFlinder駅まで市の中心を横切って流れる。地図を見ると市の東西南北にMelblourne East、West、、と言うような地区名がある。そしてそこには北ではRoyal Exhibition Building(世界遺産)、

王立展示館


Carton Museum、Royal Park、Melbourne 大学(世界ランク32)、Victoria Zoo、Edinbough Garden、東は州議事堂の裏St Patrick's Cathedral、Fitzroy Garden、Cricket Ground、Melbourne Olympic Park、Yarra Park、西はWestgate、Dockland(大観覧車)、 Yarraville、Horse Race Truck、南はNatioanl Gallery、Botany Park、Shrine Remembrance、Fauker Park、Albert Park(F1のサーキット)と言うような緑地の公園が東西南北に散在しておりその外側は碁盤の目のような整然とした戸建て大住宅が広がる。その東西南北の中心にMelbourne(多分中央:CBDか)と言うのもある。これらは区に当たろうがこれ以外にも Carlton、Docklands、Southbank、South Wharfなどの地区名が多数あるが South MelbourneはListにはなく外Suberbになっていたが行政区について別途学びを必要とした。

 

言えることは一般の市に当たる行政団体はなく上記のような区というような地方自治団体が27或いは30ありそれぞれが州の下、同列の行政権限をもつ、まとめてメルボルン都市圏と言う言葉で他国の都市と比較する数字をだす、つまり、面積8,806 km2、人口5,078,193人だ。

ジャカルタ、東京(23区)の場合が690km2規模であるから Jabodetabekや東京通勤圏に相当するがそれだと人口は30百万と密集地だ。 都市歩きも豪州大陸の広大さを頭に入れておかねばならない。

今日のカメラ追っかけはこれにしょう。

SUMMER WALK 2022 MELBOURNE CBD AUSTRALIA (youtube.com)


最初からCBDだ。Franklin St.とある。高層ビルもまじかで押し詰まった町の風景は日本と変わらないといえるが、ここで今まで行った西洋の大都会で日本と違う点を挙げておこう。

緑が多く電柱がないし歩道の段差がなく広告看板が少なくベンチがありテラスCaféありゴミ箱がある点だ。概して車は少なく歩く人が多い、その謎に迫ると市電(路面電車)が今もあり思いのほか多数連結で、街は効率的車規制と駐車(予約)制度が運用されているのであろう。

日本はビジネス商売優先と市民の安全安心のため何かを忘れた超規制の何でもあり(矛盾した言い方)の急ぎ足の今を生きるための社会だといえよう。

Franklin St.の並木は背が高いユーカリか、背丈1.5mほどの金属製保護枠が施されている。

車の駐車は1列だがビッシリ、歩道にPay hereの支払い機がおかれ、ベンチや大きなゴミ箱があちこちに何種類かある。道は電車道に出て右折(南へ)する、Elizabeth St.だ。市電の停車場は道の真ん中になが~い囲みがあるが電車を待ってる人はいない。道に鉄柵があり地下に入るがMENSの表示あり。

この通りはビルの2階の張り出し屋根がプロムナード然と続き店の看板も張り出して良く分かる。

ようやくして道はT字に差し掛かり其処はFlinders 駅である。ここに至るまで約1,300mの間にBettet、La Trobe、Londale、Bauke、Collins StreetとそのLittle xxx版が交互に5x2=10も交差していた。きちんと100m毎に交差道があることになる。正面にT字交差点で左折し、長い駅に沿い正面の道を歩くが地下鉄も走っていることを発見(のちに地下鉄でなく3駅が地下にある程度とわかる)、そのまままっすぐの端まで行くと又T 字型交差点で正面左よりに St.Pauls Cathedral があるはずだが、カメラはそれを映すことなく北からきたSwanston通りの右端を渡り、そこはFed Squareの屋外Art Cenerで、後ろを振り向くと駅の入口と思ったところはイスラム風ドームと時計塔であったりSt.Pauls Cathedral の尖塔だけが見える。

Finders Station/Fed Sqr


ここからいつか橋(Prince Bridge) を渡ることになる。つまり駅の裏には鉄路の他Yarra河がながれているのである。

Wikiに補足して貰うと“フリンダース・ストリート駅中心市街 (メルボルンシティセンター)の ターミナルで、近郊電車が郊外へ放射状に伸びる。駅の入口にずらりと時計盤(各路線の発車時刻を示す)が並びメルボルンのシンボル的建築の一つである。駅はCityの縁を一周する路線(シティループ:無料)の南辺に位置しヤラ川に接する。この路線の北・東辺の三駅は地下駅となっている。

 

橋を渡ってすぐのHamer Hallの所だろうかいつか河畔に降りYarra 河を下っていく。。。と書いたが都心にしては河畔はジョギングの人がいるし向こう岸も緑地帯が続き都心にしてはおかしいと、繰り返し動画と地図も見比べながら、結局、橋は渡らず、Yarra河を下っているのではなく、河を上っていることに気が付いた。

このあたりの緑地の環境は今を去る68年前のメルボルンオリンピックの諸施設を保存した公園への道なのである。オリンピック施設は保存されている。

しかしカメラは適当な所で引き返しFed Squareに戻ってきた。今度は川岸の方からあの橋の下を通り駅の裏に細道を発見し目出度く河を下ることになった。 駅の裏は鉄路が5,6本走っており日本なら殺風景な所であるが緑濃く植樹されている。あとで調べると地下入口から地下の各線改札口を尻目に直線でこちらに来れるのだ。

 

川向こうは、先ほどのHamer Hallが多くの高層ビル群をバックに見える。地区はヴィクトリア・展示センターで、尖塔を持つ建物はメルボルンのランドマークとなっている。

河のこちら側は巨大なフローティング ビアガーデンとなって、お客も多い。河にもクルージング船やモーターボートが行きかう。

行くほどに道は遊覧橋となり誘われるように河を渡った先は、先ほどの高層ビル群に突入だ。ここ河の南側はSouthbank地区のようだ。メルボルンで最も高い展望台(285m)を持つSkydeckが目の前だ。ビル群の足元から川岸まで広々としたPromenadeで外側の河添いにはベンチがどこまでも続くが、座る人は内側のCaféを選ぶ。 

街でもそうだったが歩いている人々では若人で溌溂としている。

 

Southbank Promenadeの次はYarra Promenadeとなるが、そこからはカジノの名前でCrown Promenadeとも言うのかな。 ここから600mにカジノ関係ビルが密集しCasino EastからLouis Vuitton Crown、Prada Crown、Crown Casino Load Dock, Conf. Center、Crown MetoなどCrown Casinoに関わるビルが10以上もあろうか 

メルボルンのクラウンカジノは1990年代作られたものでWikiの紹介文によると、“南半球最大級でありオーストラリア10大都市の中でも最大のカジノで、その規模と豪華さは訪れるすべての人々を圧倒します。 このカジノは「クラウン・エンターテイメント・コンプレックス」としても知られており、ホテル、ショッピングモール、カジノ、スパ、レストラン、シアター、国際会議も可能なカンファレンスセンターなどが用意されています”とある。

テーブル数399、 スロット台数 2500あるそうだ。ここまで来ればか、ここでやれば安心だったのにと思う。市の北からは河を超えたCasinoへ来る人のため橋が4つほどかかっている。

Crown Promenade in front right

町自体が世界の暮らしやすい都市で2004年は1位(今でもずっと上位、東京48位)、また世界で五番目に安全な街であるとエコノミストに評価されているとか

戦災や災害に合わずに再開発の必要も感じず物を大切にしてきた成果であろう。

冒頭に却って大阪市メルボルンとは姉妹都市だが、兄弟の誼でCasinoの是非やAll Packageなど必須要件を相談したのかな

胴元は客人に勝たせて、いつの間にか深入り、日本では100億が最高だ。
酔いのさめた明け方裸になっていた二日酔いを思い出すなぁ。

Camera Walkingはまだ続くがキリが良いようだ。

 

Gaza人道支援空中投下、インドネシア空軍で成功

 

インドネシア空軍は4月10日、ガザ地区の160万人の人道支援のため支援物資の空中投下により直接送ることに成功したと発表した。有名な Hercules C130Jを使用し、多分ヨルダン空軍との協力の下である。

 

救援物資の輸送は、KA2-SAS-KA2ルートによる低コスト低高度(LCLA)空中投下方式で実施されたがそれは大統領選挙の直前の3月8日にジョコ・ウィドド大統領がマディウンで、(プラボヲ国防相の外交努力とともに)、発表していたモノだそうだ。

我が国日本はどうかとAi-Copilotに聞くと:ガザ地区の人道状況改善のために、1,000万ドルの緊急無償資金協力を実施しています。この支援は、国連パレスチナ難民救済事業機関UNRWA)、国連開発計画(UNDP)、赤十字国際委員会(ICRC)、および国連人道問題調整事務所(OCHA)を通じて行われ、食料、がれき除去、水・衛生、医療・保健等の人道・復興支援を実施しています。

同じようなC130作戦は、日比両国のC-130Hが物資投下訓練や共同搭載訓練を行い、又、米軍.恒例の「クリスマス・ドロップ作戦では南太平洋の島々にクリスマスプレゼントを届ける伝統的な空輸作戦で、今年の作戦では、合計209個の荷物を57か所に届けたそうである、

物資内容はインドネシアは、ガザ地区に向けて人道支援物資を送っています。この支援物資には食料品、医療機器、毛布、テントなどが含まれており、ガザのニーズに適応しています。

インドネシア中部スラウェシ州で発生したマグニチュード7.5の地震に対する支援物資は、以下のようなものテント:500張、発電機:80機、浄水器:20器、凝集剤:2万本(水の汚れを沈殿させる薬品)が提供されています:

 

選挙で投票方針が狂うことはないが、急ぎ郵便局に走った。

 

見習う東洋のマンチェスター

昨日はマンチェスターのCity Centerの 地理概観をしらべゴシック建築の代表的名所を図らずも巡ることができたが、これではマンチェスターの再興のKEYは見えてこない イギリスNo2の都市であるから日本のNo.2の大阪と比較したいと思ったがそれよりちょっと昔大阪は 東洋のマンチェスターと言われていたのを思い出した。大阪のことはあまり知らないが低迷期で脱出のため万博やカジノを招致するとかやっきになっているが、以外や姉妹都市でもない、あまり拘ることなくぜひ検討願いたいものだ。

City Centerは丸みを帯びた三角形の形状をしている。大学への道はこの左寄りを南北のOxford St.を走り又、ゴシック建築の代表を探ったDeansgate St.は Castlefield からVictoria地区を結ぶ三角形の斜辺とすれば今度は三角形の底辺の東端のPiccaderi駅を訪ねてたい。

 

Paccadelly駅からMidland HotelのあるOxford 通りに行く動画があったのでこれを見てみよう。

Walking From Manchester Piccadilly Station to Manchester Oxford road Station ✨ England 4K Walk (youtube.com)

駅の多分南出口だろうか、前方左手に高架鉄道が走っている。すぐFairfield St.から6469通りのレンガ色の古い建物群の道に出て進むことにする。どの建物にも表示がなくFirst Streetの方向標識があるのでGoogle Mapではまっすぐ進めば既に触れたMidland Hotelからすぐの8本の煙突のある建物に行き当たる道であることが確認される。

目測すると駅から1200mでOxford通りでホテルから600m下ったところですぐ高層ビルとKimpton時計塔の所だ。

 

あとはこの6469通りの間に何か名所はないかなとMap をなぞったが特に何にもなぁいんだと指を話したその地点、Oxford通りの8本煙突の建物の正面はGenting Casino Manchesterとあり、思いがけないカジノであったのだ。・

これで大阪と結びことができるが、ヨーロッパのカジノは既にドイツのBaden―Badenを訪れたとき紹介したが、ここマンチェスターも古くから定着している。市内には10に余るカジノがあり、カジノを楽しみながらサッカーやラグビーなどのスポーツ観戦ができ、レストランやBarで憩えるところが多いようだ。 Genting Casino にはテーブルゲーム5種類以上26台以上とスロットマシン20台以上を備えている。

しかしマンチェスターの旅行ガイドには、カジノについて触れられたものはなくマンチェスター再興には昔からあるだけに関係がなかったといえる。

 

Walking VRシリーズで人が出てこない寂しさがあるので今いちど人出の多いPaccadelly駅からVictoria駅に向かう三角形の他方の斜辺を巡ってみよう。

Walking Manchester Piccadilly to Manchester Victoria 25th May 2023 (youtube.com)を選んでみた。

Paccadelly駅から今度は北口になると思うがあの労農兵士の群像は見かけない。駅に入る前に太さが20chもある鉄柱が立っている。 街中でもよく見かけるが車道との間だったりで歩行者が凭れて休むことができる。

多くの人が行き交っているが駅にトランクを引き向かっている人の方が多い。夕方であろう。右手はS字形の長い斜面のビルである。この辺りはずっと向こうまで広い歩道である。

歩道には1.5メートルの四角のコンクリート造りの箱があちこちに見られ忙しいのか冷たいのか余り座っている人がいない。行くうちに今度は植木用の鉢(壺)が道路をふせぐがごとくおいてある。鉢の大きさは高さ1.2mで、太さ1mで、植樹はクリスマスツリー然と同じような種類の木のようだ。それに時々見かける黒い大きな蓋付きボックスはなんだろう。何も表示がないことはゴミ箱かもしれない。分別はしない。

この町ではなんでも巨大である。もう4っつを数えたが最後に原因は分かった。すれ違う女性も特にヒップが超ビッグサイズである。

 

この黒いゴミ箱を背もたれ前に空き缶を置いている人が2ケ所で見かけたがStreet Musicianは多いようだ。ボックスに描かれた蜜蜂の図柄はこの町のシンボルである。小生はBeeGeesの謂れと思っている。この間youtubeで改めて聞き入ったとき70年代の素晴らしさに飛びついた。私には幾つもの消え去った世代がある。

 

カメラは逆光で写真が見にくいがPiccaderi通りを北上しているらしい。

もうDebenhamデパートの前にきている、ここで市電は右にターンする。込み入っているがカメラはPiccadilly GardensにもThe Piccadilly Street Food MarketにもよらずVictoria駅の方に行くらしい、まもなくCorn Exchange Buildingの前を通り過ぎFootball Museumの横からまっすぐの方角にVictoria駅があるはずだがここでカメラの電池は消えてしまった。

ここで次のWalking 4Kを探したが後はAdult用が多く、City Center内でドコへも歩いて行ける、梯子もできるが又来たくなる庶民が偉く感じる町の秘密を見るような気になった。

特に多いポイントは、Piccadilly Street 出だしの左手はCanal Street、Piccadilly Gardensのずっと右の方はNorthern quarter、Deansgate St.のSalford地区のNight Life は或いはマンチェスターのファッション性、文化性、庶民性は再生のカギであったのかもしれない。

但し学生は、現代アートなどを学んでいる人以外は、入り込まない方がいいだろう。

 

中世ヨーロッパ建築のサンプル マンチェスター

 

後先が逆になったがマンチェスターを歩く前にマンチェスターを知らねばならない。

産業革命の都市で暗くてレンガ造りの町のイメージが先に来るが大量生産の時代が過ぎて行ったのはついこの間に過ぎなく産業革命謳歌したマンチェスターは急転、汚れ煤けた寂れた街になったがそれが今や復興し今やイギリスNO. 2の都市と評価される。人口で言えば1931年 ピークで75万人であったものが英国病と言われ日本もいづれと警戒された1980年43万人に落ち、都市規模も6位になっていた、

 

 

マンチェスター市域では115km2で人口55万人もあるが最小中心部は目測6km2で人口は2万人弱だと思われ、この中心部は高速で囲まれこれを内環とすると外環が2重に巻いている。

 

中心部の要になる中央駅は東に位置するピカデリ―駅というがサーカスとは関係ない。

ここは2000年に1億ポンドの大規模改修が行われたターミナル駅である。イギリス西海岸の大都市たるリバプールには、ピカデリーを出発して南にジャカルタ・コタ駅の補完するマンガライ駅に相当するような駅を通っていくようだ。

 

それよりすぐ北辺りに運河が掘られて西に下ると大きな港湾設備までその備えた波止場The Quayがある。ここから綿織物が積まれリバプールから輸出されていたのであろう。

運河から見える鉄橋は、世界初の線路で、マンチェスターリバプールを繋いでいた。

(後述Victoria線か)

今地図を見ると先に上げた中心部分から数㎞離れた部分は、運河に沿って約4㎞の工業地帯を形成している。どちらも地区名が見当たらないが推定するとCener of City(City Center)とOld Traffordと言おう。

 

先日のブログのマンチェスター大学はこの内環道路の外になるが、ホンの1㎞弱外になる。ジャカルタで言えば内環状スマンギより1㎞強のアルアズハール大学の距離感である。

 

出発地のMidland Hotelからは全行程1時間の2㎞程度であったが、同じquarter内に1877年建築のネオゴチック建築市庁舎Manchester City Councilがあったが今大改修のまっただ中だ。白く全体を覆っている。

Manchester City Counsel

またHotelから北に足を延ばせば数ブロック程度でDeansgate St.にJohn Rylands Research Institute and Libraryがあるがこれもマチェスター大学所有のもので1890年のネオゴチック建築である。



Deansgate St.を北に延ばせばCity Centerの北詰まりのVictoria 地区にはまず大伽藍のManchester Cathedralがある。これは13th-century originsのゴシック建築である。

 

その先には1653年から公共に供されているChetham's Libraryのゴシック建築で、

 

同じ地区にCorn Exchage Buildingがある。1837年建築のバロック建築である。

 

これまで記述したもので古き良き建築で見るべきものを総ざらいした。

 

しかしこのVictoria地区にはそうした古い建物の他近郊向けの鉄道駅周りはイベント用AOアリーナとかNational Football Museumがある。そして、今来たDeansgate St.をもどって又John Rylands Libraryから同じだけ南に下るとCity Centerの西つまりDeansgate Squareに至りここに本当の高層ビル群があったのである。 

見事な歴史の混合を見る思いだ。

以上がGreater Manchester (グレーター・マンチェスターは、面積1,277 km2で人口は約281万人)の概観である。 Walking 4Kを見るよりGoogle Mapに頼り切った1日であった。

前編での建築物の内ゴシック建築

 

続く

 

 

 

PIK2の新情報

 

一昨日の夜、スマホのY!ニュースにインドネシアのサリムのニュースが飛び込んできた。(原典はForbes)

慌ててメモした要点はアンソニ・サリムらが支援する不動産開発会社(PIK 2)は3月25日、ジャカルタの北に位置する海岸沿いの町のバンテンに、40兆ルピアを投じて約18平方キロメートルの観光エリアを建設する計画を発表した。2060年までにサファリエリア、レーシングサーキットなどオープンし、全長40キロのカタラ有料道路で空港からもアクセスできると言うものだった。

 

誰がやるのか、サリムグループか どこでやるのかバンタンと言う町?か、これからの計画なのかは判りにくいが、これは殆ど出来上がっているPIK1に次ぐPIK2であることが確認できた。

 

まず上記でサリムが支援する会社とは上場コードPANIでありその株主MAPはSalimグループとAgung Sedayuグループの合弁であり、やるのはバンテンの町ではなくPIK2のことである。PIK2は場所の名前であり会社の名前でもあった。

 

次にカタラ有料道路は初耳なので調べると、タカラゴルフでなくKamal―Teluk Naga―Rajekであり二つはPIK2(地域)を囲む地名で(RajekはBSDの西側を抱くように北上しつつBalaraja から空港方面迄伸ばす線の計画の線上か)PIK2が確認できた。

 

次に18㎞2と言う広さであるがこれは1800へタールであり、昨年06-22のマイブログ“1,800 ヘクタール、巨大すぎる Pik - Pik2”で明かした1,800haと一致する。

しかしGoogle Mapには既に区画が表示されており目測でも1800Haになる。従い面積についてはP1K 1と PIK 2を合わした合計でなくPIK 2だけだと判断できる。(少しは拡大していよう)

東京ドームの平方メートルの我々にはヘクタールは想像が難しいが、中心の幅が3km以上あり、長さがこれの倍の6kmと読んだのである。

 

したがってこのニュースは殆ど出来上がったPIK 2プロジェクトのことだったと言う訳で既に立っているだろうTokyo Riverside やOsaka Riversidと言うコンドで、もうおなじみである。

サファリとかサーキットはまだであるがそのほか、新情報は今まで知らなかったKaTaRa高速道路であった。

 

Salimグループは不動産に少し出遅れたがこのSedayuグループ(他にLippoグループ、Lymanグループ)の協力で挽回した。

新しくはこのSedayuグループと新首都 IKNで住宅供給を引き受けているニュースもある。

 

 

マンチェスター大学への道

今日の出発地はMidland Hotelである。ホテルの正面は円柱形の建物のManchester Central Llibraryで、前庭から始まるOxford Streetが目的地のManchester 大学の表玄関まで南に向かってまっすぐ繋ぐ易しさだ。 

Midland Hotelはゴチック建設の豪壮さで、1903年建設、ドイツ空襲では見逃してくれ、Central Libraryともども、見応えある名所になっている。Central Libraryの前庭には子供(?エメリン・パンクハーストの銅像もあるはずだが)の銅像がありOxford通りが始まる所に直ぐ明るい近代的ビルがみえる。

その前をクロスする通りに2両のライトレール(言わば市電)がはしる。

 

その辺りは広い歩道かなと思われたがそうではなくてSt.Peters SquareでありCentral Libraryの裏辺りはAlbert SquareにManchester City Councilがありまた、Midland Hotelの裏辺りにはManchester Central Convention Complexがあった。

 

街に多い中世の建物に合わせビルも4~5階建てである。早速ビルに沿って長いパラソルCafeの列である。右にまた古い建物で煙突が8本もある、左にもアーチ窓の特徴ある建物と言う具合に交互に新旧建物が続くが外に突き出た広告なぞはない。

その向こうに遠くに珍しい高層の、タワービル(Wakefield Building)が見える。
またクロスする道に2階建てバスが目の前を左折する。New Two Way System Aheadの標識がある。北向きのOne Wayになったようだ。

Oxford通りは2~3選抜クラスの一般道路でバスが目立つほどで割と閑散としている。歩道は6mクラスで車道との間に1mも自転車道がある。

歩道にはステンレス鋼管を半円に埋めたものが並んでいるが自転車を立て架けるものらしい。自転車は自立しないものかもしれない。いくつもあるがガラガラである。後ほど繁華街でも多く見かけるが、歩行者の凭れ チェアにもなっている。

 

右左に、ごっつい石とレンガの建物があり左手は古い建物にPhilpotts(Careringの会社)の標識がある。隣はSt James Buidingだろう。その隣にはPalace Theatre Manchesterだ。

そしてOxford Stationへの誘導路を入れての五差路に至りさらに豪壮なKimpton時計塔をみて、右手があのWakefield Buildingだ。その手前に頭上にまたぐ道路、これを過ぎるとまた高速道路をくぐることになる。

行くほどにRNCMのビルを右に見るほどに、交差の通りの右左に両方に7階建ての建物にThe Universitu of Manchester の表示がある。建物に大きく表示看板があるのは珍しい。

 

そのあと右に緑濃い公園のある所を目印に、左側200mも離れたところに黒いガラス張り近代ビルがあるはずだ。Manchester 大学のEngineering Building A棟である。

これは本物の写真

目印と言った公園は後でMapを見るとその公園の後ろはManchester Metropoletan University があった。

 

次に赤レンガの、入口のない様な建物(Kilburn)の、隣のまたも円柱形のビルがあるがこれはManchester 大学の管理棟ビルであろうか。いつから大学の敷地に入ったのであろうか。 

左手に有名なManchester Museumがあった。大学保有の施設である。

その横がネオゴチックの旧館本館である。


1824年創設の大学である。略称UoM、ノーベル賞25人を輩出している。インドネシアでも留学人気が高い。

アーチの玄関をくぐれば広い中庭である。教会や講堂など古い建物に囲まれて、どこまでも続く。

 

だいぶ離れた所にも空手クラブなど大学の施設があり、戻って玄関アーチの正面の通りの東側も新しいビル群があり本当に境界がない。

しかし目を移すと1㎞も離れた外側には碁盤のようなくっきりした住宅地が広がりそれは市域そのものを東西南からがっちり受け止め、抱き込むごとき境界がはっきりしていた。

そういえば今までアパートらしき人の住む家々は町には見掛けなかった。


つづく

Surya Permata のタカボネラテ はサリナンデに近い



今日(先週か)のNNAは、インドネシア観光開発公社(ITDC)が南スラウェシ州で観光経済特区を開発する方針であることを報じた。 

場所は日本の海洋ダイバーなら知る人は知るダイバースポットであるタカボネラテである。ここを南スラウェシ州政府と観光経済特区として開発を進めることで合意がなったということである。

タカボネラテと言えばBaloiya Beachの方で行く機会もあったが、ジャカルタからは遠すぎマカッサルからバスで100㎞、船で200㎞故、諦めが先に立った。

このITDCが主導するタカボネラテと同じところかどうか知らないがバリ島本拠の開発業者PT Surya Permata Andalan Tbk(NATO)も海上コテージのリゾートを展開している。

彼らの紹介文によると「南スラウェシ島セラヤール諸島のタカボネラテという名前は、その環礁は水中世界の楽園と呼ばれています。世界で3番目に優れたサンゴ礁があると言われている国立公園です。 サンゴの他に、観光客はビーチを歩き回るサメの赤ちゃんも見ることができます。また、周辺には26のダイビングスポットがあります」とある。

サメの赤ちゃんが歩けるのか知らないが 正しくはジュゴンと海亀とも一緒に泳ぐ事もできますではないか

このPT Surya Permata社はバリ島のスミニャックSarinande St.20に本社を置き2016年に商業運営を開始したが既にここタカボネラテ・リゾートを入れ6つの物件を所有している。

バリ島でLuna 2 Hotel

The Villa Seri、

Mangosteen Hotel

カリマンタンのMARATUA BEACH RESORT及び

NTT州ロテ島のSURFER PARADISE RESORTである。

別称Nusantara Propertyともいう。

代表はGede Putu Adnawa社長で、1987年バリのUdayana大卒、BaliのAnantara Resortで会計他管理業務に携わった経歴がある。

会社の通りの名前のSarinandeはオランダ時代の大流行りのマルクのメロディーだったと思うが歌ってるグレースシモンもいいおばさんになったと感慨深い。続いて歌う"Surabaya"もオランダ時代の方のSurabayaである。

SARINANDE' - SURABAYA - GRACE SIMON te AMSTELVEEN (youtube.com)