今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

2022年も国家英雄は5人も

 



G20で多忙中、そんな暇はないと思ったが、今年もちゃんと国家英雄を選んで、叙勲式も終らせた。先ずは誰かという事で名前を書くと;

  1. dr. H. R. Soeharto Sastrosoeyoso(1908~2000)

  2. KGPAA Paku Alam VIII(1910~1988)

  3. Salahuddin bin Talabuddin(1874~1948)

  4. R. Rubini Natawisastra(1906=1944)

  5. H. Ahmad Sanusi(1889~1950)

知ってる人や、なるほどと思う人はいないが、最初のスハルト博士はスハルト元大統領の英雄への道の露払いの如しではあるが、むしろ元スカルノ大統領のお抱え医師だった。CNNのポスター風リストを読むと、彼はその他、インドネシア医師連盟(IDI)の創設者の一人である。Paku Alam公はハメンクブオノ9世と共にジョクジャカルタ地区をインドネシア共和国に統合したこと、TalibuddinはHarumaheraで独立勝利のため戦った男であり、RubiniはStovia卒の医師でポンティアナクで貢献したが、日本軍により銃殺された。(ポンティアナク・スパイ事件かな)、Sanusiはパンチャシラを宣言した独立準備委員会の一人である。2020年は6人、2021年は4人、2022年は5人と減ることはなく合計では203人になる。

 

Red Topは弁護士がオーナー?

Hotel REDTOP のオーナーはPT Sanggraha Dhikaであるが、この会社は2002年に1990年設立の投資会社PT Arthavest Tbkが買収している。このPT Sanggraha Dhikaの役員を見ると社長はHardyto Murni だが聞いたこともないしHendra Hartono Irswanto Ongkoと奇妙なOngkoがちらちら見えるのに、Ongkoグループの Kaharudin Ongkoの次世代のIrjanto Ongkoとも綴りが違うし、それよりKAHARUDINは金融危機時の債務返済を逃げていたり、日本のJAICに身売りした話などが飛び交っているのでOngkoはもうないものと諦めた。

このホテルはジャカルタ・Pecenongan で1995年オープンした17階建て、395室のホテルでOngkoのIndosiar Djayaが開発したそうだ。そこまでさかのぼるのはやめた。

 

先は暗いがそれならと現在のPT Arthavest Tbkの株主を見るとLucas SH CNと妙な名前である。Lucas SH and Partnersに違いないが、相手が弁護士なら追い込みもここ迄と諦めるしかないかもしれない。弁護士の名前を借りているとしか見えないが、そうせざるを得ないのはだれだろうか。

役員筋から探りを入れても、監査役会長のHenry Fitriansyah Jusuf や 社長のYeremy Vincentius、それに先代役員まで探っても皆金融専門家のようだからオーナーを推定できるデータもない。

しかし素直に理解してこの弁護士自身が保有しているとすればどうだろうか。

この弁護士はインドネシアで5つの大手弁護士事務所で、ある雑誌で表彰を受けたりしているが、見た所KPKがらみの事件を弁護する仕事が多いようだ。という事は周りはお金で囲まれていることになる。

検索するとずばりのものには行き当らないが、関連ニュースにはPapa Minta Saham事件、E-KTP事件、Bank Century 事件、Samporna案件、Meikarta案件などと云うのが、幻惑するようにみえる。もう終わった案件だろうが 話題・題材としてはおもしろそうだ。

KPKの隣のビルだったか、別の大手の弁護士事務所があったが、彼らはSudirman Centerである。

 

Red Topは元Kolff & Coのジュアンダ店

Red Top Hotel dari setiapgedung.web

 

ジャカルタ、プチェノンガンのHotel Red Topと言えば懐かしい気もするが、まず何かの切り抜きにJalan Pecenongan 72 te Batavia in april 1922 De beroemde en duurzame drukkerij, G. Kolff & Coなる文言があったので、検索しても当該記事はないもののG.KolffについてのWikipediaがあり、Kolffだけで昔、2011年3月 4日 にブログにしたKOTAのKali Besar Timurにあった“最も古いブックショップKolff” でJuandaに支店も出したことを書いているが、多分、それがここプチェノンガンだったらしい。

Tokobukukali besar 2008


とに角、Hotel Red TopがあるJalan Pecenongan No.72にオランダ時代のKolffというBookshopがあったようだ。 Bookshopというから単なる店と評価が低くなるが1848年から長く発展したオランダ時代の書籍、印刷、新聞発行までおこなったロイヤルの名称を許された由緒ある企業であったのだ。

 

Red Top Hotel 2012


Hotel
は95年にオープンしており、当時新しいホテルは珍しいので見に行ったことは思い出すが、17階程度の横に長いホテルだったようだ。ネットで出会った空中写真は長い低層ホテルでこのイメージが記憶にあるが、その後2000年代に再度行った時の写真は現代版で多分リノベしたのだろうか。不思議である。

 

今調べると当時は名前はRadisson Hotelで、民間のTata Muliaが建設、 DevelopperはOngkoとある。金融危機前のプロジェクトは殆ど人手に渡っているのが多いので又調べないといけないが、しかしそれは又としよう。

 

Tokobuku G. Kolff te kali besar timur 2014

Kali Besar TimurのKolffの建物は90年代は、まだ綺麗に存在していたことを思い出すが、2000年代に入ってみるみる内に朽ちていった。手を入れるのが遅すぎたと言うより限られた金の配分を間違えたのだ。結局全壊で長らく隠していたが、遺骨の鉄骨もないから今以て建て替えは出来てないようだ。 

PecenonganのKolffがRadison になり今のRed Top Hotelになったのであろう。ただこの点、証拠能力が低い。

 

今日のGoogleMap Kolff Kali besar

ユリウス・タヒヤの時代

Niaga Tower, Sudirman 2007



インドネシアにCIMB Niagaという銀行があるが、CIMBはマレーシアの銀行でMay Bankに次ぐトップの民間銀行でありNiagaはインドネシアの嘗ての金融危機前の民間銀行中堅である。

 

CIMBの設立は1924年(直接は1974年)と古く、従業員23,000人、12ケ国に展開しているそうだが日本にはなく地方銀行と提携はある。

 

Bank Niagaは金融危機当の前、総資産8兆ルピアでバンク・バリと並ぶ民間6位であった。この銀行はプラボヲの兄のHashim Djojohadikusumoが所有していたが、外国債務返済が出来ず国有化され、最後外国銀行のCIMBが購入することになったものである。しかしDjojohadikusumoがこの銀行を買ったのは1997年で売り抜けた感じとなったのは、時の財閥 Julius Tahijaである。ユリウスターヒャは1916年生まれ、2002年になくなったが、波乱万丈の伝記を読むと熱帯の地で生きた人生が我が事と引き比べ思い浮かべている。

子供二人George & Sjakon Tahija は父の遺産もあり長者番付にある。(2009年5月収録)

ユリウス・タヒヤ

オランダ軍の訓練を受け将校に、同盟軍から名誉の勲章を受けた唯一のインドネシア人で独立戦、ハーグ円卓会議代表、東インドネシア国大臣、国軍時代を経て、カルテックス社長は唯一のインドネシア人で、シャフリル・スカルノスハルト時代の一目置かれた重鎮、Indrapuraグループはプリブミ第一の財閥、妻は豪州避難中の歯科医ジーン、等々々、晩年は慈善活動で二人して、プンチャクに眠る。

 

 

BMWジャカルタ・プルシジャ・スタディアム

BMW Jakarta  Persija Stadium

 

マランのサッカー場の悲劇のあと、どのようなスタジアムだったのか先日、GoogleMapをアップして見たが、大きさは30,000人収容の大規模なものであった。設備よりマナーや警察の人道無視のひどさが問題だったのだろうかと思うが、それならあのアンチョールの新スタジアムが気になった。

 

私には確か6月頃のジャカルタ・フェアー時、バスウェダン州長がこけら落としをした様に思ったが、そのブログはアンチョールのフォーミュラEサーキットで別のものだったが、Grand Openingは確かに7月22日に終わっている。


ここはジャカルタのサッカーチームPersija Jakarta
 の本拠地となるがグランドオープニングではPersija Jakarta が試合を行なっている。


このチームは90年代まではMentengの公園に小さなスタヂアムを持っていたが、ここが緑地公園の計画になるに従い、レバク・ブルースに移ったが、其処が地下鉄のターミナルになった後、ブンカルノを仮住まいにしていたようだ。

本当は4月にソフトオープンしているので、2年半でこの巨大スタジアムは完成したことになる。巨大と言うのは82,000人収容であるので日本のオリンピックスタヂアムより15,000人程も多いことになる。15,000人収容規模はSankyo Frontier Kashiwa Stadiumに匹敵する。

東京と比べたが、むしろアジアNO.1というべきか、特に屋根付きのretractable roof stadiumとしては、テキサスに次ぐ世界2番らしい。名称をバスウェダンでなく、Jakarta International Stadiumとなったが住所は、小生的にはアンチョールだが、正式にはTanjung Priokになるらしい。ニックネームが欲しい所だ。

Ancol dekat Rest Jimbaran

私がアンチョールでウロウロした時はアンチョールの奥のジムバランの広場にも運動空き地が有ったり、そこから高速の南側に聞きなれた不思議な名前のBMWスタジアムもあった。BMWとはBersih, Manusiawi dan Berwibawa(清潔で人道的で権威がある)と言う意味らしい。

所が、ここはその後FIFAの検査で国際サッカー場としてはスタンダードに達してないことが解かったそうでPersijaチームは今、本拠地をボゴールなどに移しているそうだ。

技術的な所は知らないが、西側のコンコースの下の境界フェンスやグランドスタンドの周或いはアクセスや駐車場の問題でもあるようだ。このスタジアムは競技用トラックはない事の方が私には引っかかる。

 

この地区には多くの住民が立ち退きに追い込まれたようだが近くの大きな沼地を生かした水上モスクやウォーターツーリズムの経済自立を図っているそうだがどうなっているか

BMWの名前を捨てないで、生かしてほしいものだ。

 

waduk BMW

 

電気二輪車もインドネシア国産国へ

Electr. Byc on Polytron site

インドネシアの現地会社ハルトノ・イスタナ・テクノロギが電動二輪車用のバッテリーリースを開始するとのNNAニュースには、新たに2車種の電動バイク投入することも触れていたが、小生の受け止め方は、リースよりも、インドネシアの工業・生産業の自立化の点である。

報道によると、使用者・顧客側にとってのリースのポイントは

  • リース料金は 月額 25 万ルピアと安価で、バッテリー容量が新品の 70%以下まで減少した場合、新品と交換できる。

  • バッテリーを含まないオンザロード価格は 1,800 万ルピア。

という事にまとめたが、つまり、本体価格が従来のガソリン車並みであり、月額料金は毎月のガソリンと考えると非常に安く、急速にも市場を圧倒できるだろうとの印象がある。

Toko mesin cuti Benhil

該社は大昔からある、インドネシアの家電製造会社でベンヒルの家電街(森ビルの裏側で今はどうなったやら)や


SCBDの家電センターにもメードインインドネシアの看板はない。

 

しかし今日、そのPOLYTRON社のサイトを見ると以下の様に製品の一部を紹介できる。ここに電気二輪車がRp2,800万とでておりバッテリー無しの価格の凡そ2倍は言ってることが正しいと理解できた。

Polytronはインドネシアトップのビリオネア ハルトノ兄弟の事業である。単車は他に現地財閥インディカ・グループも参入しているし、あと一つNNAのニュースではVOLTA社もありこちらは月産6,000台と言う。色んな分野で国産・自力の技術は進んでいく。話は少し飛ぶが、2輪車は電気2輪車を電動車と言うが、自動車では電動車という言葉で電気自動車の範囲を広げているのが化石賞の原因だろうか。2輪車にもハイブリッドなどないはずだ。よく確かめたい。

 

ジャカルタ空港手荷物検査の優しさ

ジャカルタ空港手荷物検査の優しさ

居酒屋兆治で思い出したが、私も空港での手荷物検査で指導を受けたことがあるが、それはジャカルタのスカハ空港であった。無事チェックを済んだので記念写真を撮ろうとすると、係官が集まっての笑顔の集合写真となった。

係官の就業ルール違反となると思えるのでアップは出来ないが、別の写真を探してみよう。

この時の話は2012年でブログにしているが検索できるかテストに下にアドレスを書いて置く。

http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-4f5a.html

同じ日だったか、こちらの空港スタッフの集合写真は、係官でなくサービス部門のスタッフなのでアップしても構わないだろう。何しろこちらの気持ちはインドネシア礼賛であるのだから。

Welcome Go-cart at Soekarno Hatta Airport 2012