今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

はてなブログ開始

初申し込みから丁度10日、やっとこの投稿頁にたどり着いた。

他のブログでいつもジャカルタ中心の事ばかり書いてきたが、小生からジャカルタを引くと何も残らないのでせめて日本との比較や関連を盛り込んで書いて見よう。

世の人々の動きは早く或いは長くよそ見していたら初めてのことに出くわす事が多い。それは古いことを含めてである。

だからテーマはジャカルタ今昔 日イのはてなとしよう。

インドネシア独立宣言のラジオ放送
独立記念日までには、まだ日があるがあのラジオ放送については実際はどうだったかははてなが多い。 関係者・時間・場所を入れた事実の記録がありすぎるからである。
アダムマリクの回想録には“私は宣言文のカードコピーを横領しアンタラ通信の若い記者アサ・バファギーにこれをパンフルー・ルービスに届け同盟のモールス信号機で打電するようにと命令した。。。17日10時。。1時間遅れで打電することに成功した。”とある。 しかし歴史家A.Gonggongは“BM Diahが記者の仕事をしている仲間と一緒に宣言文を広める役割を果たした”と語っている。DM Diah確かに前田提督の邸宅で宣言文の原稿化を目撃した数少ない人物の一人で、彼はジャーナリストとして、その後Bung Hattaの直接の命令を受けていたのである。宣言文の原稿は最後にBung Hattaが口述しBung Karnoが手書きしたあとBung Sajuti Melikがタイプし、そのあとゴミ箱に捨てられた。 そして. “私の夫はその草稿を取り上げ、そのしわを伸ばし、持ち歩いていたノートに差し込みました”と、BM Diahの妻、Siti Herawatiは思い出を語っている。
BM Diahは仲間と、日本軍が発行した日刊紙Asia Rayaの印刷機を接収することに成功しそれでメルデカ新聞を発行する事になったのですとは語ったがそれ以上はなく、先のマリクの宣言文はマリクが記者のSyachruddinが放送室に送り込み放送技師と交渉しモジュールを変換しタンジュンプリオクにつないで国外放送に成功した。それは丁度19:00インドネシア語でJusuf Ronodipoeroが、英語版はSupraptoにより読み上げられたというのがあらすじであったようだ。はてなの多くは自分が多くの文献を読みこなしてないからであろうか。

追記; お知らせ

このブログは今までNiftyココログジャカルタ新旧あれこれ」で書いてきた続きとして特に日本や世界との関連ある事項を中心に書くことにしました。従来のインドネシアの歴史、ニュース、企業やWho’sWho、文化などもろもろは 「続ジャカルタ新旧あれこれ」で続けていますのでご利用下さい。

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