今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

銚子から日本橋へ

The River Tone, Edo, Konaki
昨日の台風はいつもの通り大きな爪痕を残して去りつつあるが、この爪痕は我々の考え方を今までと変えて、多くの変革を大胆にやらねば終わりが来ると言う危機感を共有することになったと思う。災害対策を憲法改正の目玉にし、世界をリードする心構えと世界が納得する大胆な災害対策が政治に求められている。その為には災害・環境・安寧に携わらない部門の小さな政府化が必要だ。小さなことを複雑にする付加価値税や通信や地方活性や財政面の下手な行政リードや規制が多すぎる。これら無駄なものを災害対策をベースにしたものに振り向かさせねばならない。
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所で昨日、洪水危機で我が家の近くの江戸川の水位が刻々と解かる頁を見つけた。国土交通省であったが江戸川全体で立った10個1時間置きかな。TVは河川や海岸に見に行かないでくださいと叫ぶだけで防犯カメラを付けたくなったが、既にいくつかは国交省にあったのだ。が、期待に添えるようレベルアップさせる事が必要だ。TV局や気象庁は見に行くなと言うだけでなく、これを広報しなければならない。

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しかし小生は、一応これで安心し、見に行く必要は無くなった。この行徳地区は多くの寺社があり、皆重文など洪水で流されているが、多分放水路(江戸川 大正8年完成たったの5年)が出来てから洪水は減ったのであろうが 


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元の江戸川は旧江戸川と称することになりここに日本橋との間の航路の常夜灯がある。日本橋まで直ぐ近くの海を使わず、川にしたそうだが、小生はその地区に足を踏み入れないのでその川はどこにあったのかしらず、今地図で確認することになる。
行徳は、塩の産地で、この生命の綱の塩を江戸へ供給することと、江戸人の成田参拝の中継地で、この航路・船旅が利用された。旧江戸川は浦安(当代島)で北から来た中川と合流するがこの中川を横切り対岸の新川に入り更にこの運河を西に進むと船堀に付く。ここに北から荒川が流れているが対岸が小名木川である。小名木川を西進すると墨田川に出て対岸がもう日本橋浜町あたりとなる。
間違いがないかいずれみてみたいものだが。。
昨日に戻って銚子から利根川に入った奥州の物資は江戸川に入ってこの航路で日本橋に着くのであるが、少し後代には取手辺りから江戸川につながる利根運河が作られ航路短縮に一役買っていたそうである。