今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

ジャワのムンチラン抑留所の思い出

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ヨクヤ特別州を訪ねた時、Magelang方面を上空で見て、この辺りも静かな歴史ある佇まいが感じられ、住んでみることを疑似体験するために降りて見た。そこはMagelang手前のMuntilanと言う県である。
赤いレンガの施設を見たら、必ず少なくとも植民時代の歴史ある施設があると経験的に知っているから降りて見たのであるが、それに違わず、発見したのは大きな教会施設のGereja Katolik St. Antonius Muntilanであった。

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ここはジャワにおける伝道の先駆者だったようであるが、日本の進駐の時はここは大きな捕虜収容所として使われたようである。当時ここの周りの施設にXaverius College (聖フランシスコ・ザビエル大学)があったようだ。抑留所は1942年12月27日から1945年8月14日まで存在したが最初スラバヤ出身の約2000人、1944年半ばには、ソロ、バンドン、アンバラワなどの他のキャンプからさらに2,000人の女性と子供たちが追加され、戦争の終了まで健康を持ちこすことが出来ず140人中135人が最後の年になくなったようだ。戦争が長引けばもっと犠牲者が出たであろう。日本の恩人でもあるザビエルを土足で踏んだような気もする。もしやと「ジャワで抑留されたオランダ人女性」の”ネル・ファン・デ・グラーフ女史”を見て見ると女史ははここではなくバンドンとジャカルタのチデンであった。

 

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ザビエル大学は今は無くなっており代りにSMA Pangudi Luhur Van Lith Muntilanなどがある。多分全寮制だったのであろうか。昔の上空写真と Google Mapが全体の建物のプロット形や正面のムンチラン若人広場などで一致することを確認した。中庭にはMission Museum Muntilanと言うミュージアムもあるので調べることが出来よう。