今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

Stadthuis文書に見る ディーメンス総督の時代

17世紀、蘭印・VOCの貿易について当時の市役所に残る歴史的日記がある。商船の動きと商品取引に関する日記で、昔、JP誌がシリーズで紹介していたが、その1639年3月の分から少しだけ抜き書きを示すと: 

3月1日 : 小型船SlooterdijkがBantenに帰港した。

3月2日: 小型船HusdjunenがBantenから帰り、会社の商人からの手紙をもたらしたが、それによるとイギリスは西スマトラの人々と、どのように商売をしているかの記述がある。

3月5日: 小型船SlooterdijkはSundaからのCoconut 4,600を積んでいた。

3月8日: バタビアの住民の奴隷からの報告によると、彼らは途中、現地の野人

     より攻撃を受け、100人程が住んでいる巨大の草葺き家のある地に連

     れていかれた。彼らは貧しく食料も武器の貯藏もなかった。

     この日、小型船Nagapatnapが着いたが特別報告事項はない。

3月9日: Wapen van Delft丸がSiamから到着、974袋の米とか製材、油をもたら

     し金額はF115,417であった。・・・

3月29日: 総督は中国と日本の船29からなるTinggan船隊にジャワの船を

     破壊するように命令した。

 

毎日記述され多忙な活動であったことが解かる。この時代はAntonij van Diementsの時代で彼はバタビア建設のZoon Coen総督の強固なサポーターであった。

ディーメンス総督は1636年から1645年まで、長い駐在期間の9年でバタビアで没している。1619年クーン総督がバンタン・イギリスを放逐して以来僅か17年であるがVOCの黄金時代で業績も良く高配当を実施した。占領地の基盤も1641年にはポルトガルのマラッカを占領、1642年には台湾全島を占領、バンタン港を封鎖・マタラムには対等と認めさせ、日本では出島だけであったがその地位を固めた。

バタビアの人口は9,000人、内オランダ人3,000人で市の拡張も実施した。

タイヘル掘割通り(Tijgergracht)を疾駆する総督の馬車の絵も有名だ。

この頃「お春」も生活しており、日本人は精悍なため契約移民が招かれたりで、100人程が住んでいたそうだ。 お春やその後のコルネリアについては随分ブログにした記憶があるが、その当時の記録はこの当時のバタビア市役所にで作成された文書になるのであろうが、その後、古文書館に移されたものと思う。

 記事に添えられた当時の時代を描いた絵があったのでGoogle Lensを翳しても、同じものは出ない代わりに似たようなものがISTOCK(アイストック)とか Gettyimageのブランドで出てくる。両者は親子関係の会社で多分このような絵画や古い写真などを売っているのであろう。