今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

風雪270年のカントリーハウス

 


オランダ植民地時代のLandhuisと呼ばれた郊外別荘の走りは、1940年に建設されたLandhuis Cilincing であろうか。 Landhuisというのはバタビア城の塀の中で住んでいたオランダ職員・軍人達がそこから脱して外部に休息の別荘を設ける時代になって行き、その意味からはそれ以前の古文書館として知られたReineir de Klerk総督の邸宅やウエルトフレーデンのParra総督、或いはイムホフ総督のボゴール宮があるがそれ等は宮殿の流れとして纏めているのでそれらを除くと以下のような特色があろうか。

ウエルトフレーデンの外のプランテーションの土地の管理が目的

周辺で改善し始めた治安状況とともに、

それらの裕福なオランダ役人や商人が保有

2階建て中心

大屋根、高窓空調

 

Landhuis Cilincingはジャカルタの大商業マーケットの走りであるSenenとTanah Abang建設のJustinus Vinckであるが、

Landhuis Tanjung Timur は1756年である。ここの広大な地区の最初のオーナーの名前はPeter Van Der Veldeである。

1730年前後:このMeester Cornelis 地区の南の土地はNi Hu Kongと言う華人が所有した後、

1756年:Peter van der Veldeが特別権利で取得しこの緑豊かな大きな中庭を持つ3階建ての建物を建設したものである。その後

1759年:Adriaan Jubbelsが買い取ったが1763年死亡しJacobus Johannes Craanの手に渡った。

1763年:CraanはLodewijk XVの装飾美を中国風に加味した。Craan家の紋章Burung Bangauコウノトリ:Crane)が建物の壁に数多く填め込まれた。

1780年にはCraanも亡くなり Helvetius van Riemsdijkが相続し1818年迄住み その後は息子のDaniel Cornelis van Riemsdijkが所有したとき、一家は絶頂期に向かい、ここで6,000頭の乳牛を買い、1830年からここの生産ミルクが有名になった。

1860年、娘のDina Corneliaが相続し彼女は夫にTjaling Amentを得ている。 

一家の商売のルールの厳しさとその頃のオランダ政庁の徴税と財産没収もいとわぬ罰則で、住民の貧困は不穏な状況を生み、ある夜Entong Gendutと何十人かの群衆はお祭りをやっていたVillaにやって来て祭りをやめさせようとした。それで喧嘩騒ぎとなった後Gendutを逮捕し大騒動の最後、Gendutは殺されるという事件も起こった。

1942年まだGroeneveldVan Riemsdjikの子孫が住んでおり徐々にプリブミも住み始め

1963年警察が収容 

1985年 火災半壊し今に残る 

Van Veldeで思い出すのは Peter Erberveldで悲劇の反逆児である。VeldはFieldの意味でアンチョールの墓地とかに残っている。Verdとなると意味は不明ながらシナールマスのアパートなどに散見されるアパートの名前にある。先を急ぐとJeremias van Riemsdijkは1775年に総督を務めている。

ダラダラとTanjung Timurの歴史を書いてしまったが実はこれについて過去3回もかいていたのでダブったかも知れない。

 

 

2014625 () Groeneveldの別荘は何処: ジャカルタ新旧あれこれ (cocolog-nifty.com) http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/groeneveld-d153.html

2017914 () 行ってみたいMau ke Villa Nova: ジャカルタ新旧あれこれ (cocolog-nifty.com) http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/mau-ke-vila-nov.html

2017年9月19日 (火) Villa Nova 最終回 ジャカルタあれこれ - 検索 (bing.com) https://www.bing.com/search?

注;追記:2023年9月21日ブログ「Landhuis Villa Novaの所在地の怪」を参照。

Landhuis Tanjung Timurを何度かVilla Novaと誤って混同・使用していたがこの誤用は小生だけでなく、Sejarah Jakarta Gusman J Nawi氏は「この間違いは後に法令の発行によって悪化した。2016年にDKIジャカルタの知事は、Landhuis Tandjong Oost またはGroeneveld をLandhuis Villa Novaと呼んだ。」と原因まで明らかにしてくれた。

また義賊Entong Gendutの騒ぎも一連ありLandhuisが舞台になるのは1916年4月のVilla Nova の方である。