今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

昔はリゾート、今は埃のCilincingか

Pantai Cilincing zaman dulu (wikimediacommon)

チリンチンは名前も涼やかな、知る人ぞ知る嘗てのビーチ・リゾートである。こう書きだした訳はVOIの記事に添えられたPantai Cilincing zaman duluという昔の写真である。

オランダの夫人が運河添いの道をハイヒールで歩む後ろ姿で、向かうはビーチ添いのレストランだろうか。

そのような日々はタンジュンプリオクでもあったはずだが、記事には結局は、Landhuis Cilincingの話と、4つの宗教が寄り添う寛容な社会を描くものであった。それらの幾つかは今までに紹介済であるが、又いずれ補足しよう。

 そしてこの写真の建物を拡大して何か読み取ろうとしたが難しく、ネットの画像も全て当たったがこの場所の確認はできなかった。

Pantai Cilincing zaman dulu


代わりにオランダ時代のビーチのにぎわいの写真でリゾートぶりを確認し、また、海から見たチリンチンの風景の写真もあったが、こちらは冒頭のレストハウスの海側の様に見える。

Cilincing dari laut google

 所で私が最初、この地に来た時は、カラワン・ブカシからチタルム河を下ってその河口を見に行こうとした時で、途中から思い直しチリンチンに入った時、丁度乾季だったか赤い埃立つカラカラの田舎道であったことだけが記憶にある。

嘗てのリゾートがいつからこのように変わり果てたのか、ちょっと不思議に思えてきた。

表向きには、外的要因として政府の埋め立てプロジェクトもあり、タンジュンプリオクの貿易港としての拡大やKBN(ヌサンタラ保税地域)の設置が大きな理由だろう。つまり1960年代までは未だココナッツの木や美しい砂浜があったが、鉄の虹とも呼ばれたと言うコンテナーデポのコンテナーの山と列をなすコンテナートラックの粉塵で美しいCilincingビーチの物語は終わったのである。

しかしよく考えるとリゾートを楽しむ裕福なオランダ人が姿を消し、代わりに当時貧しい人々が入り込んで来て来た事で、すぐこうなるもんだとも言える。そして逆にいえば、インドネシア人が余裕を持ててきた現代では町の風景も徐々によくなり、過去の人々が遺した観光資源も幸いし手近かなリゾートになって行くものだと思う。

 

鈴の鳴るチリンチンの語源は果物の名前のスターフルーツの一種であるCalincingで、それに水を表すciを付けたCicalincingであった。これを正しく読める日本人は殆どいないだろう。

3/23 追記:冒頭の写真を突き詰めた。これは確かタンジュンプリオクのヨットクラブだ。拡大して読むとJacht Clubと言う字があるはずだ。

 

3/24 追記:タンジュンプリオクのヨットクラブはやはり別だ。チリンチンのバタビアヨットクラブと併せたブログを書くことにする。