今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

二つの祖国の4部作

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市内の図書館で、JBハリス著作の「ボクは日本兵だった}と言う本を思わず取ったがその時はタウンゼントのハリスが思い浮かび不思議に思ったものだが読み進むうちこのハリスさんは我々の世代では恩人ともいえる百万人の英語や旺文社のハリスさんだったと懐かしく思い出された。その後、何かの縁があったのかメモ帳に東京ローズの名前があったが何の縁なのか解らず多分ハリスさんの本ではないかと又図書館に出かけ、ペイジをめくるも出会うことはなかった。そしてつい最近TVであった山崎豊子の「二つの祖国」からではないかと思ったがTVを見るチャンスもなくあらすじで読んでもローズの名前は出てこない。
しかし共通は日米の両親の子供たちの愚かな戦争の荒波に翻弄される悲劇で、当時そのような境遇の人たちは、主人公の周りには多くいてその中にローズも居たことが暗示された。東京ローズについてはドウス昌代の著作があるが、戦後日本政府はアメリカのおかげで復興を遂げていく中、一人彼女は米国で反逆罪で獄につながれたことを、日本人は忘れてはならない。
そして今同じ図書館の書棚から柳田邦夫著作の「マリコ」と言いうのを借りてきたがこれも何と日米混血の題材である。暗雲たれる中、日本外交官に嫁ぐことを大決断したアメリカ女性が母で、夫の赴任先、硝煙も消えやらぬ上海で生を受けたのがマリコである。そのマリコの激動の人生を描く。まだ読みかけであるが、人間はどのような激動の中でも毎日の命の為に堂々と或いは淡々と、そして真剣に生きて行くものだと確信させてくれる。
日米混血も多いが日イも多いのだろうか。日本の戦争が引き起こした係累を辿ると東亜留学生の流れや福祉友の会の方々の止むを得ぬ人生だろうか。そしてその中で或いはその後に続く多くのドラマを思い浮かぶがあと一つがあったはずだ。

 

同盟からANTARAへ


インドネシア独立宣言時代のインドネシアの通信(News Agency)は日本の同盟通信が牛耳っていたことになろうが、当時日比谷を本社とした同盟はその後共同通信時事通信に分かれ、現地ではAntara 社が復活した。
この3社の拠点数のみ比較すると

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共同  国内支局47局、海外52ケ所 本社は虎ノ門共同ビルから  汐留移転
時事  国内で78カ所、海外は27カ所 本社は銀座、自社ビル
Antara 

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国内支局34、海外は3ケ所
そして共同はモナスの一等地のANTARAのビルを賃借、時事もKeiaiビルを賃借し営業している。 写真は全部あるが日比谷とモナスを掲げよう。

 

はてなブログ開始

初申し込みから丁度10日、やっとこの投稿頁にたどり着いた。

他のブログでいつもジャカルタ中心の事ばかり書いてきたが、小生からジャカルタを引くと何も残らないのでせめて日本との比較や関連を盛り込んで書いて見よう。

世の人々の動きは早く或いは長くよそ見していたら初めてのことに出くわす事が多い。それは古いことを含めてである。

だからテーマはジャカルタ今昔 日イのはてなとしよう。

インドネシア独立宣言のラジオ放送
独立記念日までには、まだ日があるがあのラジオ放送については実際はどうだったかははてなが多い。 関係者・時間・場所を入れた事実の記録がありすぎるからである。
アダムマリクの回想録には“私は宣言文のカードコピーを横領しアンタラ通信の若い記者アサ・バファギーにこれをパンフルー・ルービスに届け同盟のモールス信号機で打電するようにと命令した。。。17日10時。。1時間遅れで打電することに成功した。”とある。 しかし歴史家A.Gonggongは“BM Diahが記者の仕事をしている仲間と一緒に宣言文を広める役割を果たした”と語っている。DM Diah確かに前田提督の邸宅で宣言文の原稿化を目撃した数少ない人物の一人で、彼はジャーナリストとして、その後Bung Hattaの直接の命令を受けていたのである。宣言文の原稿は最後にBung Hattaが口述しBung Karnoが手書きしたあとBung Sajuti Melikがタイプし、そのあとゴミ箱に捨てられた。 そして. “私の夫はその草稿を取り上げ、そのしわを伸ばし、持ち歩いていたノートに差し込みました”と、BM Diahの妻、Siti Herawatiは思い出を語っている。
BM Diahは仲間と、日本軍が発行した日刊紙Asia Rayaの印刷機を接収することに成功しそれでメルデカ新聞を発行する事になったのですとは語ったがそれ以上はなく、先のマリクの宣言文はマリクが記者のSyachruddinが放送室に送り込み放送技師と交渉しモジュールを変換しタンジュンプリオクにつないで国外放送に成功した。それは丁度19:00インドネシア語でJusuf Ronodipoeroが、英語版はSupraptoにより読み上げられたというのがあらすじであったようだ。はてなの多くは自分が多くの文献を読みこなしてないからであろうか。

追記; お知らせ

このブログは今までNiftyココログジャカルタ新旧あれこれ」で書いてきた続きとして特に日本や世界との関連ある事項を中心に書くことにしました。従来のインドネシアの歴史、ニュース、企業やWho’sWho、文化などもろもろは 「続ジャカルタ新旧あれこれ」で続けていますのでご利用下さい。

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