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「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

Country House Jepangの謂れを訪ねて

Heukenのジャカルタ史跡物語にCountry House Jepangと言うのがある。

写真付きで出ているが、どこにあるのやら長く分からなかった。気になるのはjepangと言う言葉であるが日本との関係があるのであろうか。

場所はPalmerahのGramediaのあたりであるが、1996年に取り壊されたがそのあと何になったが触れられていない。

Landhuis Jepang

今日見つけたRumah Djipang wikiにょるとLandhuis Jipang とも言うがこれはGeloraのJalan Palmerah Selatanにある。建物は既にオルデバルの時代に破壊されている

平屋建てで、ジャワとインドネシアの建築様式の、Pangeran Arya Djipang の住宅、Rumah Arya Jipangとして知られているが、正式には Arya Jipang aka Prince Arya Penangsang bin Raden Kikin bin Raden Fattah... Sultan Demak Pertamaとある。

Pangeran Arya Djipang 、南ジャカルタのRawa BelongからSudirmanまでのPalmerahの土地の所有者で、のちにバタビア市VOCの高官Andries Hartsinckの所有するところとなり、彼は地区を流れるGrogol川の近くにLandhuisを建てた時、Jipangの村はまだ森だった。Landhuisは熱帯気候に適応するために複数の特徴があるように設計されている。ジパンハウスの近くの村は、カンポンジパンまたは日本人村と呼ばれている。

と言うような説明であったがKamoong Jepangとしての地名としても残っているものはなかった。

パルメラーのはラマヤナ・デパートの裏からJakarta Post社に向かう道がPalmerah Selatan通りでありここにコンドミニアムとかKompas Towerや Media Nusantaraが立ち、足元にBentara Budaya Jakartaがある。

この一帯はパルメラーはコンパスの街: ジャカルタ新旧あれこれ (cocolog-nifty.com)としてリポートしたが、この一帯に、消えたRumah djipangがあったKampong Jepangがあったに相違ないとおもう。近所の道から見える古い家屋に匂いをかぐ

この辺り  ??

 

Bentara Budaya JakartaはKompas Gramediaの創始者、Jacob Oetama氏が1986年にオープンした文化施設で、Kudusの家をメインにその他絵画などインドネシア文化を紹介する文化センターである。住所はPalmerah Selatan No.17である。ここから少し西にGrogol 川が北上している。

文化の担い手である彼らはRumah Jepangについても、きっと敷地のどこかに記念碑を残して居るとおもう。

ジャパンの出どころは、この土地を最初に保有したPangeran Arya Djipangであるが彼はジャカルタでは、別の領主Adipati Jayakartaとの抗争した話がある。

しかし彼は、インドネシアで最初のイスラムの領主国Demagの建国者Raden Patah一族でもあり、Arya Djipangの地名はDemagにあると睨んでいる。。。。続く。