今年1月25日に “ジャカルタの緑深い街の文化”で 偶々Raden Patah通りについて触れた
先日(4月29日)も“グリーンビルのPERURI 88は今” で公共事業省の本省のビル(住所:Jl.Raden Patah)を検索したが、それが長く課題としていたCountry House Jepangの謂れで昨日のJepangを突き詰めることが出来た、神のお助けがあったことでさらにDemak王国の歴史を深堀してゆくことにする。
スルタン国のドゥマク(Sultanate of Demak:1475年 -1554年)を建国したRaden PatahはAlam Akibar Al Fattahとも言い、本当はマジャパヒットのブラウイージャヤ V(クルタウイジャヤ)の王子であり、母親は中国人の血を引く人、或いはチャンパ(ベトナム・カンボジア)出身とも言われる。母方の血統からイスラムの9聖人であるワリソンゴに建国を助けられたため、Raden Patahも熱心なイスラム信奉者となり、バンテンおよびチルボン王国の勢力拡大を助け、ジャワ海北岸一帯にイスラム教を普及させた。彼自身がワリソンゴといわれることがある。
これより前、14世紀の初め、明のYan Lu帝はマジャパヒットのブラウイジャヤ王へ一人の王女を両国の友情の証として送った。この王女は美人でチャーミングであったため直ぐ王の心を捉え彼女の欲望は何でもかなえさせ、それがマジャパヒット王宮の闘争劇の始まりである。と言うのはブラウイジャヤ王にはチャンパ出身の后がおり、最後には美人でチャーミングな王女をマジャパヒットから追放しなければならなくなり、パレンバンの領主(Adipati)Sedamarに下された。この地でRaden Patahは生まれるのであるが、下付された母親には既にPatah をはらんでいたとも思われる。
1419年父親違いの弟と共に勉学の為Tubanに送られ、ここでムスリムの導師のSunan Ngampelの元でイスラムを学ぶことになる。
こうしてイスラムを学び精神的支柱を得たPatahはマジャパヒットの地でドゥマクを建国(1478年)を成功させる。その後も養子がファタヒラーのバンテンおよびチルボン王国の勢力拡大を助け、ジャワへのイスラム教を普及に貢献した。ラーデンパタには二人の子供と二人の養子がいたが彼は1518年(1504年とも)亡くなる。その後スルタン国は
1518年 - 1521年;アディパティ・ウヌス
1521年 - 1546年:スルタン・トゥルンゴノ:1527ファタヒラージャヤカルタ勝利
1546年 - 1549年スナン・プラワタを経てJepangの公守
1549年 - 1554年:アルヤ・パナンサンArya Penangsangと続くのである。
1546年にトゥルンガナが亡くなった後、後継者争いとなり一旦スナン・プラワタ が王位に就いたが、1547年に彼のいとこであるジパンの摂政(ブパティ)であるアリヤ・ペナンサンによって殺された。その後、アリヤ・ペナンサンはドゥマク王国の後継者トレンガナの子孫を主張するハディウィジャヤ(またはジャカ・ティンキール)を殺そうとしましたが失敗した。(逆に倒されたとも)。ハディウィジャヤは、1568年パジャン王国(1568–1586 )を設立したのである。後にマタラム王国の拠点となった。
このあたり以下の論述もある。
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アリヤ・ペナンサンは、中部ジャワのジパン・パノラン公国に居住する領主である。
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彼の父、ラデン・キキンは、スルタン・トレンガナの後継者としてデマク王国の王位をめぐる戦争で、スナン・プラワタの手によって亡くなった。
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アリヤ・ペナンサンは、父の死に対する復讐として、スナン・プラワタからデマクの王位を奪った。
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アリヤ・ペナンサンはスルタン・プラワタを暗殺するために殺し屋を送り込んだ。
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彼は家宝であるケリス・キ・ブロンゴット・サタン・コーバーを暗殺者に貸した。
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しかし、この計画は成功せず、デマクの王位はスルタン・ハディウィジャヤの危険にさらされた。
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Sunan Kudusはアリヤ・ペナンサンを擁護し、スルタン・ハディウィジャヤを殺害する計画を練った。
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両者を和解させるという名目で、スナン・クドゥスはスルタン・ハディウィジャヤに不運のタトゥーを入れた席を提供した。
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しかし、その席は代わりにアリヤ・ペナンサンが占め、暗殺計画は逆転、失敗に終わった。
或いは:
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バタビアの初代統治者であるアディパティ・ジャヤカルタは、港と都市の周辺を含む領地を持っていた。
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また、パンゲランアリヤジパンとして知られているArya Penangsangは、南ジャカルタのジャランスディルマンからパルメラのエリアを所有していた。
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どちらの人物も領土を拡大したいという野心を持っており、激しい戦いの末、ジャヤカルタ公爵は殺害され、アリヤ・ペナンサンは殺害の首謀者として告発された。
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確固たる証拠はないが、この告発はアリヤ・ペナンサンの生涯を終えるまで悩まされた。
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アリヤ・ペナンサンは、大胆不敵でありながら物議を醸す戦士としてVOCの貴族や役人の間に不信と疑念を呼び起こした。
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アリヤ・ペナンサンさん自身もVOC軍との戦いで戦死した。
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彼の悲劇的な死は、ジャカルタの歴史上の人物の一人としての彼の支配と存在の終焉を告げました。