今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

昔の北のヨット・クラブ

チリンチンのビーチリゾートを歩む、オランダ婦人の向かう先にある建物(月曜のマイブログ)は、大きな看板に名前が記載されており、拡大しつつ判読に躍起となったが、果たせなかった。そしてタンジュンプリオクにも、何かあった記憶があったことは付記していたが、

 

Kon Bat Jacht Club

その後、インドネシアの都市古写真の大家のbintoro_hoepoedio氏のアルバム(4,647件はあるはず)を何気なく見ている内に、この写真の看板にあるKo Bat Jacht Clubが目に留まった。

そしてその場所を確認するため、Yacht Club near Tanjung Priokで検索するとGedung Yacht Clubと矢印が出てくる。場所はAncolの東端Priok港の付け根で、あぁやっぱりあの写真はCilincingでなくTanjung Priokだったのかとがっかりしたが、

 

Yacht Club Tanjung Priok

場所が、アンチョールに近すぎて、チリンチンとは何となく違うようなので、更に検索をしている内に、オランダ語の”Badplaatsen van Batavia: Zandvoort en de Jachtclubという記事に行き当たり、この記事で最初のCilincingのResort Beachが何なのか、すべてが氷解した。 

この地は海水浴としては1880年にさかのぼり、それが書き出しであった。この地はその昔は、Zandvoortと言われる海水浴場(Badplaatsen浴場か)であった。

この付近の空中写真があるが、これを見るとあのオランダ婦人は運河添いを歩いているのでなく、ヨットの海上桟橋の先まで行って、戻っていると想像され、向かっている建物がヨットクラブである。桟橋の左側は海で、こちら側の(クラブの左手)が海水浴場のZandvoort であった。 ついでに右手はKoja運河でボート泊まりが見え、右手のハート型の試走レース場が見える方はGMの工場で、ここの辺りはPetit Trouvilleと言われる地区であった。 

Jacht Cub di Koja

実際はヨットクラブは、1926年建設されたようで、先行してあったZandvoortの1920年代は、月明かりの下のデート場であったが、昼はレストランもなく、飲み物弁当持ち込みの海水浴であるが、便所もなく、汚れた海水とクラゲの発生に悩まされた時代もあったらしい。 

 

このYacht Clubの頭文字の Kon Batは、Koninklijke Bataviasche(王立バタビアの省略である。これが出来た時は悩みの解消もあり、大賑わいの毎日のようであったが、高潮なのか海水の上昇なのか何となく海水にやられて行ったように私には思える。

こうして過去、カリブサールのスンダクラパから移って来たヨットハーバーは、その後又アンチョーの東端(タンジュンプリオク)に移り、その後更にはアンチョールの入口・チリウン河口から或いはPluitに移って行ったのであろうか。

そして1957年、スカルノがオランダとの関係を蹴った時を契機に、チリンチン自体の地盤も下降していったのであろう。