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「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

玄奘三蔵の西域と大乗東漸

 

アジアの中央の東は中国の西域である。本来西域はペルシャ辺りまで含ものである。

西域と言えば三蔵法師が登場する戯曲「西遊記」がある。この玄奘三蔵が釈迦の仏跡を探訪・記録した旅行記大唐西域記』である。

玄奘三蔵を構成する、(ヴィヤナ)、(スートラ)、アビダルマ)、唯識学など原典に基づき研究する目的で629年長安(現:西安)の都を出発し、ゴビ砂漠からトルファンへそして天山北路を通ってタシケントや、ブハラへ、そこからアフガンに入りバンミャン、ガンダーラカシミールからインドの目的地の一つ、ナーランダー寺院(ナーランダ大学)で10年間も研修、その途上、釈迦の一生の聖地、ルンピ二(カピラ城 誕生)、ブッダガヤ(悟り) 、クシナガラ(涅槃)等各地の仏跡をめぐり、仏像・仏舎利のほか梵本657部を得て、帰りはデカン高原の世界遺蹟となったアジャンター仏教石窟(1~6世紀)迄行き、645年に長安に帰り着く。保存のため建てられた大雁塔で漢訳した。

最初は出国を咎められ、ゴビ砂漠に迷い込んだりしたが帰りは苦難のカラコルム山脈の峻嶮を越え、カシュガルから、井上靖楼蘭敦煌のある西域南路を通り、タミル盆地=タクラマカン砂漠を一周したことになる。

漢訳されたものは、「大般若経 」全600巻をはじめ75部1335巻にのぼる。「成唯識論」もあり、玄奘門下より興った法相宗の根本典籍となった 只般若心教は二大訳聖と言われた鳩摩羅什の翻訳説もある。こうして大乗仏教が日本迄北伝・東漸したわけであるが更に、大乗仏教(Mahāyāna)の生まれの2-3の事柄について付記したい。

 

ー 釈尊滅後およそ100年(または200年)にインドを統一したアショーカ王(マウリア朝)は、釈迦の口伝を編集したり仏教を守護した大王として知られる。

ー ガンダーラ、現在のパキスタン北西部に存在した古代王国でアレキサンダー大王の征東を契機にギリシャ文明の影響で仏像が作られるようになり、1世紀から5世紀(2世紀:カニシカ王)には仏教を信奉したクシャーナ朝のもとで最盛期を迎えた。

ー 2世紀に生まれたインド仏教である龍樹(ナーガールジュナ)は中観派(インド大乗仏教の二大流派)の祖であり浄土真宗では八宗の一人で、ナーランダー寺院で説教研鑽した。大乗仏教の創始したと言われる。

ー 玄奘は、鳩摩羅什の故国、亀茲国(現クチャ庫車市辺り)に入ると、2ヶ月間滞在している。

 

インドで生まれた仏教はこうして大乗仏教としての流れもあったが、インドでは土着ヒンドゥ教の世俗性や密教化に埋没して行き12~13世紀のイスラムの興隆と共に灰燼に帰した。ナーランダ―大学は3ケ月燃え続けたという。

少なくとも全ての遺蹟の保存はインド政府としても確固として続ててほしいものだ。(2014年新ナランダ大学として再興;日本にもあり

 

以上一部下記サイトより引用」

1.『岩波仏教辞典』第二版

2.東京大学仏教青年会『玄奘三蔵の旅』解説;長南瑞生公式チャンネル