今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

JIJI Press、Tokyo & Jakarta

旧同盟の片方の時事通信については過去3回のブログ記事の中であえて触れなかったのは、それだけで十分も書けるからだ。
f:id:nishimikyohei:20190409220212j:plain
その本社の銀座のビルは5年ほど前に歌舞伎座から新橋演舞場に向かって散歩しているとき、今日の日もあるべしと、ちゃんと収めていたのだ。しかし1時間マイアルバムなどで探し当てたのは余りいい出来でなくこの程度の入り口だけの写真だった。
なればジャカルタ支局の写真はどうかなと見ると、JIJIもちゃんと進出済で、珍しくPT(株式会社)として設立し、日本企業の為に時事ニュースの提供事業も行っており、

f:id:nishimikyohei:20190409220336p:plain
事務所のビルはケイアイビル(写真はGoogleMapより借用)である。現在のJIJIのニュース蒐集体制は日本国内で78カ所、海外は27カ所の支社等を持っているそうだ。共同(国内支局47局、海外52ケ所)と両社合わすと相当なものになり、なぜ合併しないのかとか、競争力はどの程度かとか傍観者にはわかりにくい通信・報道の世界となりそうだ。
以下JIJIとは関係ないが、世界に目を移すと世界の5大大手(ロイター、AP、UP、AFP、タス)とか新華社があり、余りランキングは示し得ないが大手は自らの手と目をもって収集するのが普通らしい。 
変化の激しい面もありTV・週刊誌などの報道情報は消費者が必要情報を選択していくのだろうからその選択の状況で愈々国力差も出てこよう。

アマゾンのボスの離婚ニュース


ベゾス氏とマッケンジー夫人の離婚は1月頃出ており、ベゾス氏のNo.1 株主権の行方が取りざたされて居たが調停が成立して夫人は氏の16%の持ち株の1/4で妥協したらしいがそれは全体の4%で日本円でも4兆円の規模である。従いAmazon全体の市場価値は100兆円で日本の一般予算を超える規模で今更驚く。取り分が減ったため女性No.1 の富豪の地位は3位になったようだ。
これは何げなく見ていたBisnis Indonesiaの記事で1分前の記事で触発されたもので、このニュースそのものよりこの新聞社の無料で且つ一分前と言う即時性に感心したのであるが、それならいつも有料になる日経はどうかと言うとこちらはなんと朝の時間の5時に発表されていた。
このニュースは多分米国のメジャーニュース通信社が公表したもので、これで以てインドネシアと日本の新聞報道姿勢を比較するのが間違いのようであった。
それなら別のニュースを探してみると日経でシンガポールの水処理会社の再建をインドネシアSalimグループが支援中止したという話があったがBisnis誌にはこれはなく代わりにSalim グループのスタートアップ開発のニュースが有料であった。
やはり必要なら有料で何誌も取らないといけないようだ。そう簡単に比較はできない。

日イのスマホ事情

スマホの普及率の報道が何件か目にしたが最新のものに拘らないと以下の事が解る。
インドネシアスマートフォン販売量ランキングで中国のOPPOvivo、小米(Xiaomai)の3ブランドが上位5位以内に入った。いつだったか新華社ニュースを矢野経済研究所共同通信グループ)が収録したものでシェアはOPPOが25.5%で、サムスンに次ぐ2位になった。Vivoは7.5%で4位、小米は6.2%で5位。3位は現地ブランドのアドバンで、シェアは8.3%だった。 
しかしその後Samsungが27%、Xiaomaiが19%のニュースもあるりXiaomaiが各国で伸びている事実がある。
インドネシアスマホの普及率は60%台で一時年間成長率13%とかの数字が躍ったがこの伸び率は世界一であった。ソフトはアンドロイドが90%である。大きなROM容量のスマートフォンを購入する代わりにクラウドストレージサービスを積極的に利用するという動きがある

日本の普及状況は64%でソフトはApple 68%>Android32%でAppleが多いのが特徴(他国とは逆)で機器もAppleが68%であった。
普及率世界一は韓国92%でSamsungが57%の一位のブランド、中国の普及率は83%とトップグループ、機器はHuawai22%のトップ、普及率が60%切れるのはインドの40%だけである。Sony/Erricsonなど日本製が顔を出すのは日本の6%だけである。
先にOYOのホテルのブログの際、書いた“このような動きが急追していることを日本の政治リーダーは知る由もない風である。”というのはここで書きたいことであった。日本政府に注文を付けるとすれば、料金が高すぎる、最初だけ安さをアピールし欺く、タッチに弱いのか、勝手に動く、Wihiが消える、独占に甘える。。かな

二つの祖国の4部作

f:id:nishimikyohei:20190403175712j:plain

f:id:nishimikyohei:20190403175731j:plain

f:id:nishimikyohei:20190403175805j:plain




市内の図書館で、JBハリス著作の「ボクは日本兵だった}と言う本を思わず取ったがその時はタウンゼントのハリスが思い浮かび不思議に思ったものだが読み進むうちこのハリスさんは我々の世代では恩人ともいえる百万人の英語や旺文社のハリスさんだったと懐かしく思い出された。その後、何かの縁があったのかメモ帳に東京ローズの名前があったが何の縁なのか解らず多分ハリスさんの本ではないかと又図書館に出かけ、ペイジをめくるも出会うことはなかった。そしてつい最近TVであった山崎豊子の「二つの祖国」からではないかと思ったがTVを見るチャンスもなくあらすじで読んでもローズの名前は出てこない。
しかし共通は日米の両親の子供たちの愚かな戦争の荒波に翻弄される悲劇で、当時そのような境遇の人たちは、主人公の周りには多くいてその中にローズも居たことが暗示された。東京ローズについてはドウス昌代の著作があるが、戦後日本政府はアメリカのおかげで復興を遂げていく中、一人彼女は米国で反逆罪で獄につながれたことを、日本人は忘れてはならない。
そして今同じ図書館の書棚から柳田邦夫著作の「マリコ」と言いうのを借りてきたがこれも何と日米混血の題材である。暗雲たれる中、日本外交官に嫁ぐことを大決断したアメリカ女性が母で、夫の赴任先、硝煙も消えやらぬ上海で生を受けたのがマリコである。そのマリコの激動の人生を描く。まだ読みかけであるが、人間はどのような激動の中でも毎日の命の為に堂々と或いは淡々と、そして真剣に生きて行くものだと確信させてくれる。
日米混血も多いが日イも多いのだろうか。日本の戦争が引き起こした係累を辿ると東亜留学生の流れや福祉友の会の方々の止むを得ぬ人生だろうか。そしてその中で或いはその後に続く多くのドラマを思い浮かぶがあと一つがあったはずだ。

 

同盟からANTARAへ


インドネシア独立宣言時代のインドネシアの通信(News Agency)は日本の同盟通信が牛耳っていたことになろうが、当時日比谷を本社とした同盟はその後共同通信時事通信に分かれ、現地ではAntara 社が復活した。
この3社の拠点数のみ比較すると

f:id:nishimikyohei:20190403101736j:plain


共同  国内支局47局、海外52ケ所 本社は虎ノ門共同ビルから  汐留移転
時事  国内で78カ所、海外は27カ所 本社は銀座、自社ビル
Antara 

f:id:nishimikyohei:20190403101926j:plain


国内支局34、海外は3ケ所
そして共同はモナスの一等地のANTARAのビルを賃借、時事もKeiaiビルを賃借し営業している。 写真は全部あるが日比谷とモナスを掲げよう。

 

はてなブログ開始

初申し込みから丁度10日、やっとこの投稿頁にたどり着いた。

他のブログでいつもジャカルタ中心の事ばかり書いてきたが、小生からジャカルタを引くと何も残らないのでせめて日本との比較や関連を盛り込んで書いて見よう。

世の人々の動きは早く或いは長くよそ見していたら初めてのことに出くわす事が多い。それは古いことを含めてである。

だからテーマはジャカルタ今昔 日イのはてなとしよう。

インドネシア独立宣言のラジオ放送
独立記念日までには、まだ日があるがあのラジオ放送については実際はどうだったかははてなが多い。 関係者・時間・場所を入れた事実の記録がありすぎるからである。
アダムマリクの回想録には“私は宣言文のカードコピーを横領しアンタラ通信の若い記者アサ・バファギーにこれをパンフルー・ルービスに届け同盟のモールス信号機で打電するようにと命令した。。。17日10時。。1時間遅れで打電することに成功した。”とある。 しかし歴史家A.Gonggongは“BM Diahが記者の仕事をしている仲間と一緒に宣言文を広める役割を果たした”と語っている。DM Diah確かに前田提督の邸宅で宣言文の原稿化を目撃した数少ない人物の一人で、彼はジャーナリストとして、その後Bung Hattaの直接の命令を受けていたのである。宣言文の原稿は最後にBung Hattaが口述しBung Karnoが手書きしたあとBung Sajuti Melikがタイプし、そのあとゴミ箱に捨てられた。 そして. “私の夫はその草稿を取り上げ、そのしわを伸ばし、持ち歩いていたノートに差し込みました”と、BM Diahの妻、Siti Herawatiは思い出を語っている。
BM Diahは仲間と、日本軍が発行した日刊紙Asia Rayaの印刷機を接収することに成功しそれでメルデカ新聞を発行する事になったのですとは語ったがそれ以上はなく、先のマリクの宣言文はマリクが記者のSyachruddinが放送室に送り込み放送技師と交渉しモジュールを変換しタンジュンプリオクにつないで国外放送に成功した。それは丁度19:00インドネシア語でJusuf Ronodipoeroが、英語版はSupraptoにより読み上げられたというのがあらすじであったようだ。はてなの多くは自分が多くの文献を読みこなしてないからであろうか。

追記; お知らせ

このブログは今までNiftyココログジャカルタ新旧あれこれ」で書いてきた続きとして特に日本や世界との関連ある事項を中心に書くことにしました。従来のインドネシアの歴史、ニュース、企業やWho’sWho、文化などもろもろは 「続ジャカルタ新旧あれこれ」で続けていますのでご利用下さい。

旧「ジャカルタ新旧あれこれ」:http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/

続「ジャカルタ新旧あれこれ2」:http://jakartan2.cocolog-nifty.com/blog/

ジャカルタ今昔 日イのはてなhttps://nishimikyohei.hatenablog.com/