今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

私のはてなブログ

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旧「ジャカルタ新旧あれこれ」

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新「ジャカルタ新旧あれこれ2」

追記; お知らせ
このブログは今までNiftyココログジャカルタ新旧あれこれ」で書いてきた続きとして特に日本や世界との関連ある事項を中心に書くことにしました。従来のインドネシアの歴史、ニュース、企業やWho’sWho、文化などもろもろは 「続ジャカルタ新旧あれこれ」で続けていますのでご利用下さい。
旧「ジャカルタ新旧あれこれ」:http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/
続「ジャカルタ新旧あれこれ2」:http://jakartan2.cocolog-nifty.com/blog/
ジャカルタ今昔 日イのはてなhttps://nishimikyohei.hatenablog.com/

Benhil Central Superblock

Benhil Central Superblock
というような名前に惹かれて調べてみたがこの述語でのGoogleは何故かゼロであった。
この間日本のTVでGoogleで引っかかる数が最少なるクイズショーをやっていて最小5個の検索数の言葉(何だったか忘れたが)が最優秀であったがこれを抑える言葉になる。Benhil Centralという言葉だけならこのプロジェクトはいくつか引っかかったが、それは2013年の計画の延長のもので、確かにスディルマン通りに面する黒いビル(Sudirman Suite Apartmen)は小生が2018年7月 6日 (金)に「もとDKBジャカルタビル」と言うブログで触れた通り完成しているが、パッサール・ベンヒル(市場)の改装計画とのつながりは未だ不明である。そしてこの黒いビルの脇のベンヒル通りを挟んで元リソナ・プルダニア銀行があった土地に日本の森ビルが建設中であるが、Superblockとの関係も今一つ不明である。(無関係で隣と言うだけだろうか)この三つの黒いビル・森ビル及びベンヒル市場の位置関係が解る写真は借用のこれである。

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Benhil Central Pasben
完成した黒いビルは写真の右半分のビルで森ビルの敷地は未だプルダニアビルの屋根と駐車場で奥の高いビル(計画のみ)の手前の低いが屋根が特徴の建物がパッサールの計画である。この写真のプルダニアの敷地の森ビルは着々と建設は進んでいると友人から聞いている。そしてこの地にあるMRTの駅Benhilからは安全にSudiruman通りにつながっておりスディルマン通りの両サイドがつながって便利になっているそうだ。
Benhil Centralは1.8ha(それほどでもない)の土地に1兆ルピア(100億円弱)をかけてリテール施設、ホテル、事務所ビル、コンドミもつスパーブロック(名称 Green living & Superblock とか....)を建設するもので、この市場の保有・運営運会社の市営PD Pasar Jayaと国営建設会社Wikaなどのコンソーシアムが計画している。所謂MRTと協力するTODコンセプトであるが。。。
このブログは“ジャカルタ新旧あれこれ”のブログに入れるつもりであったが日本も絡む “はてな” の多い内容なので中途半端も顧みず“ジャカルタ今昔 日イのはてな”にブログにアップしよう。
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Benhil 2014
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ジャカルタ芸術大学と東京芸大

Patung Persahabatanを製作したのはアリ・サディキン市長が設立したジャカルタ芸術大学ともいえるLPKJ (Lembaga Pendidikan dan kebudayaan Jakarta)の学生であったが、

IKJ TIM
この大学は何となく近くのイスマイル・マルズキ公園奥の芸術学校の気がして現在の何かを調べる気になった。LPKJと言う名前は既になく、Googleもその名前の記事などをこの10年そこらにアップした人がないと、いくらサーチングしても引っかからない。それではとジャカルタ芸術大学から色々逆引きで近づいていく方法でPenguruan Tinggi Seni(芸術高等学校:大学)のインドネシアTop9に行きつきこれだと思ったがこのベスト9にはジャカルタの大学は何故かなく、更に探すとベスト5芸術学科キャンプスKampus dengan Jurusan Seni Terbaik di Indonesiaの中の第4番目にInstitut Kesenian Jakartaを見つけた。このベストのランクを出すと以下のようで、


1. ISI JOGJA (Institut Seni Indonesia Yogyakarta)
2. ISI SOLO (Institut Seni Indonesia Surakarta)
3. ISI Denpasar (Institut Seni Indonesia Denpasar)
4. IKJ (Institut Kesenian Jakarta)
5. ITB (Institut Teknologi Bandung)
序に先のtop 9は
1. Institut Seni Budaya Indonesia Aceh
2. Institut Seni Indonesia Padang Panjang
3. Institut Seni Budaya Indonesia Bandung
4. Institut Seni Indonesia Yogyakarta
5. Institut Seni Indonesia Surakarta
6. Institut Seni Indonesia Denpasar
7. Institut Seni Budaya Indonesia Kalimantan Timur
8. Institut Seni Budaya Indonesia Sulawesi Selatan
9. Institut Seni Budaya Indonesia Tanah Papuatabloidjubi.com
なぜ9なのか何故Jakrtaは入ってなかったのかは解らないがこれでジャカルタのIKJにたどり着いたがこのWikiにはこの大学は最初LPKJと言い1976年6月にAli Sadikin,により設立され最初は踊りTari、 劇Teater、音楽Musik、美術Seni Rupa、映画Sinematografi の5学部だった。1981年に大学に衣替え現在はTVやデザインなども充実させてきたのだと思う。

昔マルズキ公園の奥を探検した時一番奥の左の隅にこの大学の入り口があり何か芸術祭をやっていたことを思い出すが現在は更に奥に高層の学舎も建っている様だ。
インドネシアでも総合大学などにもこれらの芸術系の学部はあると思うし日本も関連学部は多く専門や普通大学など100大学がある。範囲がむつかしいが国公立5芸大と5美大というくくりがあるのでこれだけでも出しておこう。
「国公立五芸大」は、
東京藝術大学
京都市立芸術大学
金沢美術工芸大学
愛知県立芸術大学
沖縄県立芸術大学
5美術大学は:
多摩美術大学
女子美術大学
横浜美術大学
秋田公立美術大学
・武蔵野美術大学
であるそうだ.。

ジャカルタ千の島と東京9島

ジャカルタは首都州であり東西南北・中央の5区に分かれているのは周知のことだが、本当はこの他に一つの県がありそれがプラウ・スリブ県(Kabupaten Kepulauan Seribu)である。インドネシアの場合県の下には必ず郡がありその下に村(町)がある。プラウスリブ県の場合は南北2つの郡がありその中に三つの村がある。北の郡の村はHarapan島、Kelap島、Panggang島、南の郡の村はPari島、Tidung島、Untung Jawa島である。全体の人口は24,000人は面積は8.7km2に過ぎない。一番遠い距離でも126㎞であるが、そういえば首都である東京も南の多くの島をも持っているが、これは比較するのがおかしい位規模が違うものだ。

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八丈島クルーズ
東京の場合これらは大きな島で9島を数え、行政的に1町(大島町)と8村(利島村 · 新島村 · 神津島村 · 三宅村 · 御蔵島村 · 八丈町 · 青ヶ島村 · 小笠原村)で人口は26,000人であるが総面積は395km2である。 面積はいつも比較で出すフランスのパリが105km2であるのでいかに広いかが解かろう。日本の方が、小笠原諸島世界自然遺産に指定されるなど観光資源にめぐまれているのに人口は少なく、観光で云々されることは非常に低いようだ。距離的にも一番遠い所で1,070kmであり近い大島でも7時間もかかるので、プラウスリブの高速2時間程度とは桁が違う。しかしプラウスリブで憩う夢よりこちらの方が国内だけに実現性は高いはずで 島々の案内は“東京愛らんど”に詳しいし、アクセスマップも借用した。 ところがこの「東京愛らんど」はこれら伊豆諸島・小笠原諸島のアンテナショップで島への玄関口である竹芝客船ターミナル内にあるそうだから、そちらにまず行くことにしよう。

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伊豆小笠原アクセスマップ

Patung Persahabatan ひどい名前の街の記念像

Patung Persahabatan ひどい名前の街の記念像

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patung cut mutia
昔のジャカルタの雑誌に名前が今一つ知られてない彫像があった。名前はDerap Pembangunanとあり、時期は未だスハルトの時代、或いはジャカルタ市長はアディ・サディキィンであった。立っている場所はCut Mutiaモスクのある公園の先のJl.Cut Mutia道の真ん中である。 ジャカルタ市の公式サイトにも出ていない。何とかして探して現在名前はPatung Persahabatan(Friendship)と言うことだけは何とか捕まえたが、記録忘れたためどこからともわからない。
何故なら頼りのGoogle Mapでも何も出てないからで、KWIと大きく出ている建物の前あたりである。
この雑誌によるとアリ・サディキンが相当推進したようでジャカルタ芸術大学ともいえるLPKJ (Lembaga Pendidikan dan kebudayaan Jakarta)の学生の創作らしく、雑誌はメデイアも市民も、余りに冷淡なのを嘆いているようなわけであった。Derapと言うのは速足、躍進とかいう意味でPEMBANGUNANはスハルトの代名詞でもあった開発である。インドネシア人はユーモアのあるニックネームを付けるのが上手いが、これには慈悲深いアリサディキンの“nasib baik”とか“Hansiip rondaパトロール市政警護団” “nguber maling盗人追跡”あとは“ orang kebelet berak”というのもあり、これはどうかな ここまで言う! 死にかけ排便?

プラウ・スリブ観光に期待

3月のニュースでプラウスリブのニュースを二つキャッチした。3月中にプラウスリブを訪れた(観光)客が急増したということで例えば2月で21,000人が3月は36,000人になったというもので、他の一つはジャカルタから近い島のBidadari、Onrust、Cipir、Kelorの1806年前後の蘭英の戦争の歴史を触れたものである。特にBidadariはその前からバタビアの流行病に罹病した人々を収容する病院もあったそうでPulau Sakitと言われていたそうだが、Onrust等には今でもBenteng Martelloと言われた砦が残っている。蘭英の抗争については別途小論「ジャワをめぐる西洋の抗争 その3」に詳しいのでそちらに譲る。

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Map Pulau Seribu Sheila
プラウ・スリブというのは千の島というが数えた人はいないようだ。現地の旅行会社Sheilaが名前がついている島のリストと代表的島のマップを作っているが名前のある島だけで110を数えている。 最北はPulau Sebiraで或いはJaga Utara(北の監視人の意味)とも或いはオランダ領当時の同じ意味の名前Noordwhatcherとも言うようでジャカルタのアンチョールマリーナから126㎞もある。そこから25㎞程陸に近づくとP.Duaと言うのがありこの名前のシーフード公園がスナヤンにあるのを思い出した。
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Pulau Putri、PT Sheila
ここから又南が、大昔小生が行った島で当時JALが保有していたが、その名前はPulau Pantaraである。ここには40のCottageや大きな海上カフェなどあり立派だ。小生のブログの記録ではその後A. Graha所有になっていたが、このあたりにあるHarapan 島、Sepa島、Pelangi島、Putri島など昔から有名で、P. Putriには海中水族歩道がある。それから未だ南にもPramuka島、Tidung島、Untung Jawa島 限がない。島々の様子はSheila社のペイジが充実しており写真と地図を借用した。 
その中で沖のある島を繋ぐブリッジなどを見ているとマディソン郡の橋まで連想するが、出来るならこの千の島のどれでもいいから今すぐにでも行って長居して見たくなる。そういえば東京にも南の島々があることを思い出した。

まだ蔓延?の結核 TB(C) 

お陰様で小生の周りではジャカルタを含め結核の罹病の患者の話は覚えがないので、ひとまずは騒ぐ必要はないが、タマタマ読んでいた小説で思わず感激したこともあった。田辺聖子小林一茶第1巻最後の句は“白露やあらゆる罪の消えるほど”というものであった。一茶20歳の頃、一茶に初めて自信をつけてくれた人は労咳に伏すおりよという若い娘で、数年ぶりに彼女を訪れた一茶は、彼女が17歳で亡くなっていることを知る。土産片手に行くはめになった墓地への道は草がむしていたが、その清らかさに心打たれるばかりだった。 おりよ!そこにタマはいるかい タマとは始めて会った時二人して助けた野良猫である。
その病気の労咳であるが、労咳とは明治期までそう呼ばれた結核の事で厚生労働省のぺイジには、「日本はまだ結核の低まん延国ではありません。」とあり意味はどっちなのと言いたくなる。
数字で示せば日本全国の2015年の結核届け出率は、人口10万対14.4と言うことらしくそれは全人口比約18,000人もいると言うことでまた死亡率は人口10万に辺り1.6ということらしい。だからまだ蔓延国にはなってませんと早とちるより未だ比率が目標の低い率になってないと悲観的に取るべき表現である。その見通しは2020年でも達成できないのでは心配されている。 ここでも届け出率(14.4)とか死亡率(1.6)が出ているが、それは %を意味するものではなく人口10万当たりの指数(人)であるのでちょっと取っ付き難い表現である。平たく言えば全国で18,000人が罹病しその内1,956人が死亡するということである。 おそろしいことである。
イギリス・ドイツ以下先進国ではこの率は10以下でアメリカでは2.8とゼロに近くなる。
逆に最悪あるいは蔓延国トップは281のカンボジアで次いでボツアナ、ミャンマー、フイリピン、ザンビアからインドネシアの127と続く。韓国が80、中国60であるが、これらの数字は年により異なるが、これらの国は蔓延トップクラスになるのだろう。インドネシアの名前が出たが、国土も広く、気候、流行時期もあろう。
なお日本の2015年の死亡者の1956人の内訳でその75%が80歳以上であり60歳以上で言えば97%となる。加齢体力、予防体制、世代により問題の中身は大分異なることと分析する。
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