プチェノンガンのHotel Red Topから、そこにオランダ時代のToko Buku、Kolff &Coがあったことは書いたが、その時Pecenongan Menjelang Abad ke20というAlwi Syahab教授のESSAYを保存していたことを思い出した。この記事では、なぜここがにぎわった通りになったかの歴史に触れたものであった。
要点を引用すると;
そのESSAYは2000年頃、Astra Internationalの本社があったJuanda通りの事で、それを去る120年前の1880年代、当時、左右が青々とした木々でいっぱいで、舗装されていなかった、致命的に静かだった地域がPecenongan地区で、イギリス時代(1808-1811)以来、ラッフルズはブタウィの住民がノールトウェイク(ジュアンダ通り)とリシウェイク(ベテラン)およびリスワイク通り(ハルモニ)地域に住むことを許可しなかったため、今のPecenongan通りに現地人がすむようになった。そのPecenonganの南端のジュアンダ通りのそのアストラのオフィスは、以前はオランダ人のヴァンドルプが所有する書店と印刷所でしたが、独立後はインドネシア政府に引き継がれたが、オランダ時代、ヴァンドルプはジャカルタで最高の書店であったそうだ。そして同様に、当時のペセノンガンには、ブタウィの住民の何百人もの労働者がいるコルフ&カンパニー印刷所があり、多くは質の高い本を出版し、国有化された後も同じ運命をたどりました。コルフはまた、有名なオランダの新聞、ジャバ・ボーデを発行しました。この新聞は、1950年代にRI―Belandaの関係が悪化した後、発行が禁止されました。という風に既述され、小生がKolffの場所をRed Topの場所だとしながら自信がなかったのは, Van Dorp というあと一つ大きな書店があったことを知らなかったからであった。
独立後、1950年代、Pecenonganはオートバイのトレーダーが集まって来て、ジャカルタのオートバイ取引の中心地の1つになったそうで、当時はオートバイはノートン、ジャワ、DKW、トライアンプ、BSA、フッフなどの西洋製のオートバイで、日本製のオートバイはまだ生産されてない時代だったわけだが、其処が夜になると店の前の歩道空き地が屋台でにぎわになったが、小生の時代2000年前後は屋台を見ながらそこから左折れのBatu Tulis 通りの中華系Ikan Bakar のPondok Raguna派であった。
Pecenonganを見SukarjoWiryopranoto通りにでるが、現在はその辺りに行くような日本人はいないだろうな。どんどんと街の風情も変わっていく。