今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

ここにいたPontjo Sutowo

Wisma Nugri Santana

スデイルマン通りのミッドプラザ・ビルをgoogleで眺めている時、“このは”と言う焼き鳥レストランの名前があるのに気が付いた。木の葉はグランドウイジャヤにあった筈なので、そんなはずはないと拡大すると隣のビルの方であった。このビルはWisma Nugra Santanaと言う名前であるが、昔、海鮮中華を利用したことがあり、ビルの名前はPacifik の名前だった記憶がある。当時Bank Pacifikと言う銀行があり、これがグループの銀行だった(金融危機で破綻)のである。初めてNugra Santanaの名前になっていたことを知り、それならきっと大富豪リストにあるかも知れないと手元のデータを探ると1991年までさかのぼってそこの29位にIbnu Sutowoの名前を発見した。

Ibnu Sutowoは当時誰でも知っているプルタミナを私物化した人物でインドネシアNo.1のヒルトンホテルを営業していた彼で、その後は子息のポンチョ氏が後を継いでいた。このビルにSutowoの足跡を知った今日まで、そんな話は聞いたことも無く、このグループの前向きな話の無さ過ぎた30年だったようだ。

 

スハルト健在まではこのグループも健在で中でもHotel Hiltonを頂点にLagoon Tower、The Hilton Residence、Balai Sidang Jakarta Convention Centerなどを配しBali Handara Country Club やKosaido Batam Golfなどすべてにお世話になったほかSurabaya HiltonやBali Hilton Internationalも持っていた。

そして突然2012年HILTONホテルがSultanホテルと名前を改称して以来これらもPontjoの手を離れて行ったようだ。特にHiltonの敷地はブンカルノスタヂアムと一体的に政府保有であったに違いなく全て政府保有にかわったのであろうか

ただこのNugri Santanaビルは1989年に立っておりオーナーはPT. Pura Selokamas. Berdiriだったことは突き詰めたが、ここがPontjo氏のNugri Santanaグループの本拠地であり、海運、薬品、ゴム・パーム油産業がメインとなっているようだ。

ポンチョ氏の本名は正確にはH. Ponco Nugrosusilo SutowoでありITB卒である。