今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

英雄も建造物も美人も歌も宝庫のミナンカバウ

Padang はMr zettoの故郷で一度はとも、思っていたが行く機会もなかった。

 

イメージ的にはインドネシアの故郷に錦を飾る、merantau文化のミナンカバウの中心地(本体は山地を云う)で西スマトラ州の州都で北の100㎞にBukittinggi市、南150㎞にKrinci山(3805m)、海上150㎞にMentawai諸島を有する港湾都市である。パダン料理、Padan Semen、Andalas大学が地図から飛び込んでくる。

 

 

BI Padang

例によりBIと 駅を訪ねることにする。BIは市の中心にあり、ミナンカバウのピンと張った屋根様式で堂々と大空を圧している。

 

stasiun Padang


近くの中央駅もこの屋根様式をゲートに構えているが、どちらも、それほど古いものではない。

 

Javaschebank Padang

Javasche Bankは記念建物のミュージアムとして保存されていたが市の南の河口にあった。この川はNurbayaという風光明媚な観光地となっているようだ。Javaschebankは1864年開設でソロ支店の1867年より早い。先日のCirebonもPadangより遅く1866年なることは書いたとおりである。

Padangはその紹介文に2度も地震の大津波にやられた事が書かれておりそれは1797年と1833年だから、この建物が津波にやられることはなかった。


港はTeluk Bayurという名前で1980年頃懐かしの歌がある。ジャカルタベイはTeluk Jakartaと言うクロンチョンで1980年代良く聞いていたはずだ。

 

西スマトラ州インドネシアの英雄偉人のふるさとで2009年代 55 Tokoh asal Minangkabau di Pentas Nasionalという本があったが当時国家英油は149人だったので全国の1/3をミナンカバウ出身者が占めていたのだ。試しに英雄第1号Abdul Muisはミナンカバウ人であり、ジャワのディポネゴロに対応する英雄はイマムボンジョールである。

ハッタ・シャフリール・タンマラカ・ヤミン・ナッシールと挙げて行けば独立に残した貢献は偉大だ。

ブキティンギには旧日本陸軍司令部が置かれ、掘られた洞窟(ゴア)が今もあるそうだ。