今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

Sydney Harbour か Bay か

世界の街歩きで今度はシドニーに決めて、あるWalking 4Kを見ていたが約5時間もかかるもので、相当丁寧で説明もしてあり、補足のために出る幕はない。しかしシドニーの地形は特異な歴史があるようでRiasと言われる形状が100を数える岬、ビーチ、島々で、シドニ―湾一つとっても複雑で地名に現れる地形の英語名を勉強してみることにした。

 

そのシドニーの湾であるが Harbor(英Harbour)なのかBayなのか、Gulf、Portなのか、ハタマタその違いはと問うとわからない。日本語では地名につくのは湾か港くらいであるが湾は海上であり港は陸上の(施設をもつ)地名につけるのでこれを都市名につける場合は殆ど港でありBayになろう。あまり違いははっきりしたものではないがSydneyは Harbor なのである。

HarborもBayもGulfもハタマタCoveも自然の海域であるが錯綜はしているが特徴でいえばHarborは船が停泊するための安全な水域で港内にBayやCoveを一つや二つ以上持つものでCoveは入り江で小施設を有しBayは施設をもつが必須にしない。GulfはBayよりも大きく、より広範囲にわたる波や潮流を持つ海域を言う。

 

このSydney Walkingでも==>海を渡るSydney Harbour BridgeがありDarling HarbourがありWalsh Bayや Campbells Coveなどがある。

 

波止場(Wharf)、埠頭(Quay)、桟橋(Pier)、岸壁・船渠(Dock)(これはほんの示唆)の施設を持つ地名にはCircular QuayやBarangaroo Wharfを歩いている。

Sydney Harbourに流れ込む川はParramatta川である。Sydney airpotの方にはBotany Bayに流れ込む川など複数ありCreek小川、swamp沼沢、潟湖 Lagoonが見られる。

 

Parramatta川は上流30㎞程度でCreekとなり、さらに奥に湖がある。

20kmで堰Parramatta Weir堰がある。すぐ南にParramatta Wharfがありここまで例のOpera House 辺りのCircular Quayから船が運航している。

Circular Quayの辺りにSydney Harbour Bridgeがありその横に高速の海底トンネルも走っている。Google Mapはご丁寧に海上も船に乗りStreet Viewをやっている事でありトンネル内もStreet Viewをやっている事には驚いた。

それより驚くことは、人口が伸びている訳でもないのか開発・建設中の場所はなく、長い海岸線のどこまでもStreet Viewは続きクレーンや工場やタンク群を見ることもなかったことだ。

 

公共建物のスペースは公園化され必ず歴史銅像があり Hyde ParkとRoyal Botanic Gardenはそれぞれ16haと30haが隣接した巨大さである。

街の中心の海岸線はテント・パラソルのテラスにうずまりここではその一寸も無駄な空き地がないほどであった。

出来上がった文化都市であった。



 

 

 

(63) Sydney, Australia Walking Tour - 4K60fps with Captions - Prowalk Tours - YouTube

 

我がアパート ブミマス Tanuwidjaja

 

ファトマワティにブミマス アパートメント出来たのは1996年で、日本人の住宅がアパートに移って行った頃だったので一挙に日本人の人気のアパートになった。そのあとすぐスーパー・パパイヤがブロクエムを出てここに出店したのもこのころだ。人気度はあれから28年も過ぎようとしているので日本人のアパートと決めつけられず我がアパートとした。

 

場所はFatmawatiでなく中に入ってJl. Taragong Rayaでそのころ近所のKristal HotelもありよくBar Counterで瞬時を過ごしたものだ。

オーナーはDjadjang Tanuwidjajaと言う人で2024年現在も、PT Bumimas Megahprimalの取締役社長を務めている。71歳(1953生まれ)である。 彼は嘗て PT Kim Eng SecuritiesとPT Total Bangun Persada Tbk1で役職を歴任したが、また2010年、PT KESで株券を偽造したとして法的処置を食らっている。

同氏はPT Total Bangun Persada Tbkに相当の株式を保有していることが知られており、20241年2月28日現在、800万米ドル相当の株式を保有している。

Resourcesの国のDampac、 PANASIAも

 

J ResourcesのResourcesは資源の際たる金鉱山会社であったがResourcesで名を売ったBumi ResourcesもBakrieグループで健在だが、今はBumiよりBayan Resourcesの方が時価総額インドネシア2位で、オーナーのLow Tuck Kwongを富豪2位に押し上げていた。

 

中堅資源会社にCentral Omega Resourcesがある。株主はPT Danpac Resources Kalbarが60%保有する中国との合弁のニッケル関係の投資会社である。

 

Danpacはもともと医療・医薬品製造の会社でJohnny Wiraaatmadja(Yoevan Wiraatmaja?)とKiki Hamidjajaとが保有しているが、WiraaatmadjaはもともとバンカーでPanin Bankの会長で、67才ある。

 

Central Omega Resourcesは、1995年PT Duta Kirana Financeの名で設立された金融会社である。同社はその後紆余曲折6あり2008年にニッケル採掘権の保有者PT Mega Buana Resourcesを買収し鉱業会社に転換した。コナウェとモロワリのニッケル鉱山を通じて資金を得て2011年、政府の政策を見越してニッケル精錬所建設を計画した。

製錬所は2015年6月にようやく建設され、鉱石の輸出禁止に間に合い更に鉱山会社買収、精錬所拡張を続けている。

Kiki Hamidjajaは現在社長であるがPresiden KomisarisにLim Anthonyとあるのが気になるところであるがSalimとは関係なかろう。

 

Resourcesで驚いたのはBumiで上場コードBUMIでPT Bumi Resources Tbk (BUMI)、上場コードBRMSでPT Bumi Resources Minerals Tbk (BRMS) があることで後者は前者の子会社である。

また繊維部門でResourcesが付いたPT PANASIA INDO RESOURCES TBKがある。

ポリエステル ヤーンの紡績、撚り、機織、プリント、染色、仕上げなどを行う会社であったが2019年5月29日以降、上場取引を停止した。

オーナーはAWONG HIDJAJA氏で1952年生まれ、2009年には資産 $69百万で インドネシア 146位の富豪であった。

娘さんかAGNES NOVELLA HIDJAJAが監査役でMacquarie University, Sydney を卒業している。他、家族経営している、していた。

 

序にResoursesはMineralの他、石炭に多く(Atlas,Alasm, Black Diamond)、他にはパーム産業(First、Golden Agre)や紙パ産業(April Asia)の企業名につけられている。

Japan の J にキリ込む J Resources

 

日本の会社かと見まがう J Resourcesであるが、該社は正式には PT. J Resources Asia Pasifik Tbk と言う会社でインドネシアの後発・中堅金採鉱会社である。監査役会長のJimmy Budiartoにより起こされた、インドネシア第3位の金採鉱上場会社になっている。

J は Jimmyの J だろうか。J一つで日本代表 J:COMも、J Resourcesは - 今さら 日イのはてな (hatenablog.com)

 

現在の金鉱山は Penjom (Malaysia)とLanut (North Sulawesi)を保有している。低品位の金鉱床ながらヒープリーチシステムを運用・採掘し年間約20万オンスのゴールドを生産している。

彼の述解からの引用しよう。「私の父は石炭産業で非常に著名な人でしたが、私が父の会社を手伝い、関与し始めたのは1997年頃になってからでした。大学を卒業した2000年に、私はより深く関わるようになりました。父の会社は2008年は業界があまりうまくいっていなかったので、2009年に事業を売却する決断をし、父は不動産にもっと力を入れ始めました。それは彼にとって正しいことであり、私は新しい機会を探し始めることができました。その頃、友人から、鉱業の分野に進み、金鉱会社に投資することに興味があるかどうか尋ねられました。面白そうだと思い、イエスと答え、PT J Resourcesとなるものへの投資の旅を始めました。

出だしは運よく簡単のようだが彼は一から鉱物、冶金学、化学の専門を学び2013年に金が危機的状況に陥ったとき、同社の引き継いだ古い鉱山をブラウンフィールドプロジェクトに置き換え。またダイナミックヒープリーチングと呼ばれる独自の特許取得済みの内部処理イノベーションを使用して、最も厳しい時期を乗り越えることができたそうだ。

更に彼は“成功の秘訣は、最も低いキャッシュカーブに位置する金価格を生み出す能力であると信じています。情熱と継続的なイノベーションに裏打ちされ,安全面では、グローバルな慣行に従ってコンプライアンスを遵守し、勤勉に行っている企業と見なされています。”

ジミーの最終目標は、貴金属の採掘にとどまらず、バルク商品に進出することだそうだ。

豪州?拠点のグローバル経済誌CEO MAgazineの記事Gold digger: Jimmy Budiartoから引用した。

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彼はUniversitas Pelita Harapan (UPH)の1997年卒業である。JResourcesの92%を保有している。会社決算はコストが先行しているがこれからであろうか。株価は本年により上昇を見せた。時価総額は4兆ルピア、上位にMerdeka Copper Gold 、Archiがある。

本社はEquity Tower,48Floor, SCBDである。

新首都IKN後のDKJの扱い

 

首都特別地区の「DKI」がJKTの別名(冠)であったが、なくなった後のジャカルタの新しい地位に関する論議がある。DKI JakartaDaerah Khusus Ibukota Jakarta)を単にジャカルタ特別地域(Daerah Khusus Jakarta(DKJ))とすることになったようだが、これだとDaerah Istimewa YogyakartaDIY)と同じで特別州としての名前でありDIYの州都はKota Yogyakartaとなる。その伝でいくとDKIの州都はJakarta Pusat市か?とか言われそうだ。

 

次に、特別の意味は経済などの中心地(ビジネス中心都市)としてであり、それならばJakartaだけでなくJaBoDeTaBekの概念が沸いてくる。この際、どこまで入れるかでチアンジュールまでいれたJaBoDeTaBekJurもある。

 

これを一歩進めてJakarta に合体すると、州をまたぐ、大きな、重大な問題となる。行政的合体でなく集積都市として発展させる構想は、集積地域評議会とか特別機関によって指揮されることが考えられる。

そのような概念を現在の行政に例をとるとPapuaがある。Papuaは現在5つ?の州にまたがるがこれを公平な開発にするためにはパプア開発加速運営委員会がありその長はパプアの場合は国家領域のレベルの問題であり副大統領が任じられたが、それでもその権限は開発政策の調和、同期、評価を任務としている。

 

このジャカルタのDewan Aglomerasishh集積評議会の長と 並行してDKJの首長を直接選挙から大統領任命にする考えもある。

 

今度はインドネシアの経済を握る魅力あるポジションであり、政権の思惑次第ではどのような形も可能であろうしジョコウィの頭の中でいろいろ渦巻まいていたのだろう。

ジョコウィだけでなく他の党からも、例えばPKSはDKIジャカルタを立法国家の首都に、IKNヌサンタラを行政国家の首都にすることを提案している。

アニスも再出馬の観測もあるようだ。

綺麗ごとにするためブタウイが使われることがある。

もすぐ決まることだ。

最近のインドネシア海外観光客

 

1月の927千人は前年同月比で16%アップとなりまあまあの滑り出しである。 1月は季節要因から毎年ピーク8月の7割の水準であるので、コロナ前のピークを抜けるものと期待されている。

過去の実績を推移で見ると下記の通りである。

2023  11,677

2022     5,889

2021     1,557

2020     4,052

2019    16,101

2018    15,805

2017    14,036

日本は2018年がピークで31百万で2023年に25百万迄回復してきたので、状況は同じような感じだが、インドネシアは意外と過去出来すぎの感があるので苦戦であろう。

ピーク時日本は世界の観光立国11位(31,192千人)であったがインドネシアは12,948千人の31位とされたが此の時はインドネシアの数字は2016の推定数字であった模様。

 

現在(2023年)のインドネシアの御三家はマレーシア、シンガポール、オーストラリア2百万がらみである。中国は訳あり頷きの半減(787)であるが、日本は抜かれて行った、気づけば半減の257である。流石地力の米英独の392、335、263やはり想定通りの韓国347であった。

バーデン・バーデン湯の町カジノに学ぶ

世界街巡りのZurichのあとはドイツのバーデン・バーデンだ。Badenとは湯浴み(温泉)であり、それに珍しい重複語なので昔から馴染みがあった。その上、古くからのカジノがあるのだが、訪れるのは今日初めてである。

今日のカメラはBaden Baden, Germany 🇩🇪 The Glamorous Spa Town ☀️ 4K HDR (youtube.com)https://www.youtube.com/watch?v=iYVDF5DxibQさんである。今回は画像を見ながら読んでもらう事とする。

 

事前知識で先にイメージを高めておこう。Baden-Badenは観光保養地の小都市かと思ったが面積はパリより広い147㎞2だが人口はやはり5万人強。南西部のカルルスルーエの南30㎞、更に40㎞南にはフランスのストラスブールがある。国境の間はライン河が北上する山地でシュバルツバルト(黒い森)と読ばれる。浴場はローマ時代にさかのぼる歴史があると言われるほどで、連れてカジノも古いが、現代の設備から言っても、イタリア、フランス、イギリスに次ぐもので、他の諸々のカジノとは一線を引く。

出発は木々の緑の葉陰をくぐり抜けた先の広場で、ギリシヤ・コリント風円柱が16本もある長い宮殿風建物が建っている。Opulentスタイルと言うらしい。(Trinkhalle:飲泉)

回廊には大型歴史絵画が8面ほど飾られている。それは左右にあるが全景はカメラに要らず片側だけである。これを抜けると再度おなじような建物があり

Kurhaus(温泉保養ハウス)と表示されている。こちらの円柱は中央部8本、右翼左翼12本の総計32本となるが右の建物と合わせここがカジノと浴場その他の設備で、前庭のショッピング店舗と大きな公園を形成するようだ。

 

ショッピングを抜け一番左に大きな劇場Theaterがある。

この広場の手前は川がこの地を縦切るが右隅の橋の向こうにAtlantic Park Hotelがあるが、カメラは橋を渡らず川に沿って上流にむかう。

10分も歩いた所で橋向こうに何か公園が見えるので橋を渡り木々の中の道を歩いていくとバラ園につく。バラ園が二つ三つ合体したような広さだ。

ここで方向が判らなくなったので大きく地図で確かめると;ライン河が国境で、Baden Badenは当然その東側で、更にその東側がSchwalzwaldで、Karlesruhe辺りからずっと南のスイスのBasel辺りまで縦に広がる。Baden-BadenはそのSchwalzwaldに食い込むように山地に抱かれている。東側の方が本物のSchwalzwaldで峠にケーブルカーが走り山頂は660mの砦城(ruin)である。

Baden Baden駅は6km北で街は20㎞と南北に長い谷に横たわる。これで自分の立っている位置が判った。

先ほどのKurhausの前庭を南北に縦断する河は川幅6mほどの Ost川でそれに沿う道がKaisersalleeであるがカメラは北からTrinkhalleに入ってきたのである。

先述のAtlamtic Park Hotelの所からKaisersalleeはRichtentaler Alleeとなり並行した川沿いの堤防道を更に南(上流)に向かう。森の向こうにMuseumが三つほど森に隠れてある。Museum LA8, Frieder Murda、その間にKunsthalle)。

Trinkhalleから1,500mも歩いただろうか、今度はBrenners Park Hotelが堂々と立っている。そして川を渡ると先のバラ園である。バラ園とは私が名付けた名前で本当はGonneranlage(散歩園)という。種々のバラが咲き乱れるわけでなく、椅子・テーブル、噴水、彫像、生垣、造園設計を楽しむ場所で弁当を広げる人はいない。太陽の下にいることが最大の楽しみなのだ。

バラ園は横側の入口から出て川の方に戻り今度はOst川を離れ少し西側の道を北にとると先のBrenners Park Hotelの反対(正面)側の玄関を左手に見て更に教会やKongressなど由緒ある建物を見ながら噴水のある広いセンターにでてくる。

なんと、当然ながら左手遠くにKurhausが見える。Ost川を下ってきていたのだ。但しこの辺りKurhaus前広場と街の間のOst川は暗渠になっていた。

Kurhaus前の広場の暗渠を渡りにぎやかな街に向かう。カフェ街である。

 

ここでBaden Badenの街全体の印象書くと、建物は殆ど4階建て(戸建ては見ず)の石造りの重厚な建物(コンクリビルは見ず)で、石詰め(レンガでなく磨かれた石?)の街路で全てが歩道(車侵入禁止)である。ここも要は古都なのである。

カフェBistroをすぎて五叉路があるが、ここに、道の真ん中にも歩道がありつまり歩道が左右入れ3本ある大きな道があることになるが、ここまではバスが入ってくる、

ここが交通の要綱地だろう。(Leopoldsplatz)

街に店の看板は出せないので行ってみないと何屋さんかはわからない、このカメラのゆく所、八百屋や肉屋など生活臭はなかった。カメラは古都Altestadtの北のはずれまで来てまたもどる、

 


坂を上りまた下りこの辺りで中心の教会(Stiftskirche)を中心に縦横にを巡り最後は山中の坂をのぼりPanoramaに立つが見晴らしの写真はなく都合58分のツアーは終わった。

 

 

一寸物足りないので補足しておこう。

ー Spaは町中のホテルにあろうが有名なのはFriedrichsbadである。ここの温泉保養コースはなんと16行程で3時間(約3千円と安い)かかる。ほかにローマ時代遺跡なのかCaracalla Therme(カラカラ・テルマ)もある。

ー Casinoはここは18tabel、144slotマシンであるが開設1838年、設備は最高で高級である。日中見学ツアがある。ドイツはここ以外に意外や80強のカジノ(=.都市)がある。

- GoogleのStreet Viewはとぎれとぎれで Youtubeのカメラを追いかけながらGoogle Mapのstreetをたどるのは出来なかった。ドイツではプライバシーが厳しくGoogleのカバー率は低い。

ー 大阪の夢の埋め立て地の金に狂ったカジノ建設の思い付き為政者に、参考に供しようと思ったがここはなんと世界遺産であった。

Leopoldaplatz