今さら 日イのはてな

「ジャカルタ新旧あれこれ」の合間に

ジャワ探求 戰死日本兵慰霊碑

図らずも知遇を得た井口教授より、彼のホームペイジの“ジャワ探求”にアップされたニュースの幾つかを案内頂いた。そのひとつが「戰死日本兵慰霊碑」というもので1942年日本軍がジャワ進駐しオランダ軍を攻略した直前、ボゴール方面に進んだ日本軍部隊の兵士30人の戦死した慰霊碑にまつわる話で、小生もこのブログに何度かアップしたことがある。

 

廣安梯隊戦没碑 di Taman Prasasti

正しくは『廣安梯隊戰没者三十勇士の碑』というものでジャカルタのプラサスティ墓碑公園にあるが、この碑はボゴールの戦地に1942年に進駐日本軍の手で建立されたが、1994年頃現地開発で邪魔になるとして当局がこの公園に、裸の石碑を持ち込んでいたものである。

一方戦後の戦友会が現地に建てた碑もあり、そのまた一方ジャカルタ新聞が現地で行った移転ニュース(2021年11月)もあり、こちらは『廣安梯隊戦没者慰霊碑,日本国新潟県新発田・旧第十六歩兵聯隊戦友会之建』(字体碑文のまま)とある通り戦後戦友会が1999年に建てた2つ目の碑の移転の式典のようだ。

一つ目の碑は原隊がガダルカナル転戦の前に現地で建てたもののようだが1994年頃にはプラサスティ公園に持ち込まれていたので、戦友会は何もないものと思われたのであろう。

 

小生がプラサスティ公園で見た後、加藤裕氏も2001年頃偶然見つけており、その後の活動経緯は著述に詳しいが、いずれにしても原隊も、戦友会も、ジャカルタ大使館も、従軍世代やその他のジャカルタの人々の尽力と、現地公園事務所関係の好意で原墓碑に土台を付けて、ここに永久に歴史遺産として眠ることができたのであると加藤氏も結んでいる。

多くの人の思いが、重なり二つの慰霊碑となった訳だが、渡河中に崖の上から狙い撃ちされた無念の惨劇は、いついつまでも思い出していかねばならない。

井口氏のサイトを是非見て下さい。

http://www.maiguch.sakura.ne.jp/ALL-FILES/JAPANESE-PAGE/JAVA-HISTORY/default-java-history-j.html

 

私は、先日偶然に見たNHKの番組 「雲南 玉砕・来なかった援軍」を思い出し、又今日、その番組に辿り着いた。知られていない玉砕もあったのだ。最強と言われた福岡の第56師団の拉孟・騰越(らもう・とうえつ)援蔣ルート占領・守備隊 4,100人の悲惨な玉砕であった。

日本にある玉砕の慰霊碑には未だ、毎年、数は少ないが、玉砕のあの日には霊拝の人が立つ。